枯れ葉の沈んだ香り

ということは(7月7日の続き)、1903年秋に書かれた手記はゴーギャンを念頭に置いていたのかもしれない。

 

錆びた金色の風景、しみ入る美しさ、重々しい平和、沈黙、足もとに厚く積もった落葉、……

おお枯れ葉の沈んだ香りよ、秋の庭で、消え去った生活の思い出を生き返らせる……葬式のようなさびしい魅力よ、この下で、すべて逝って帰らぬもの、別れを告げるものを含んだ死は、甘いものであろう。

私自身に、p131

 


モンパルナスのアトリエとサロン

サラ・ベルナールのポスターを描いて一躍有名になったのがチェコ出身のアルフォンス・ミュシャだった。1894年末の出来事で、この頃のミュシャは冬のパリから脱出できないほど困窮していたらしい。

 

ミュシャのアトリエがあったのはモンパルナスで、この前年までゴーギャンと共用していた。ゴーギャンは1回目のタヒチ滞在から戻ったものの、家族のもとへは戻れず、モンパルナスでアパート暮らしをしていたが、描くためにはアトリエが必要だった。

 

ミュシャとの共同利用は、ゴッホの時とは違って友好的だった。ミュシャが撮影したハルモニウムを弾くゴーギャンの姿がのこっている。また、ちょうど制作にとりかかっていた『白い像の伝説』Mémoires d'un éléphant blanc(作者はジュディット・ゴーチェ)挿画のためにゴーギャンがポーズをとっている(デッサンと写真があるが、挿画に採用されなかった)。

 

アトリエの共同利用は順調だったが、ゴーギャンはブルターニュに長期でかけたりしたので期間は短かった。やはり専用アトリエが欲しかったようで、1894年1月に、歩いて5分の所にアトリエ用にちょうどよい部屋を見つけて移った。

 

移転先は 6 rue Vercingétorix, Montparnasse、ウィリアム・モラルドという作曲家の家の2階だった。

 

Salon Molards, 2階左上半分がゴーギャンのアトリエ

 

モラルドはラヴェルと同じ世代の作曲家で、妻のイーダはスウェーデン人だった。この家で Le Salon Mollard を開き、特に北欧の音楽家や画家がパリでの拠点とし、グリーグやムンクもここに来ていた。フローラン・シュミットもモラルドのサロンの常連で、ここでディーリアスと出会い、ディーリアスの作品を編曲するきっかけとなった。ディーリアスがゴーギャンの『ネヴァー・モア』を購入するきっかけになったのはこのサロンではないかと思う。

 

ゴーギャンは再びタヒチに去ってしまうが、モラルドとは手紙のやりとりが続き、1903年5月8日に亡くなる2ヶ月前にもモラルド宛の手紙を出していた。

 

Portrait de William Molard, 1894, par Gauguin

 

1903年5月19日(まだタヒチからゴーギャンの訃報はパリに届いていない)、セヴラックはシュミットに、9時にモラルドのところで会って作品を見せて欲しいと、手紙を出している。

 

セヴラックはゴーギャン大ファンだった。本人と会ったことはないと思うが、どこかで見かけるくらいはあったかもしれない。そのセヴラックの周囲にはゴーギャンと特に親しかった人が何人もいる。先述のモラルドがそうで、サロンのあった建物の一角に短期間とはいえ、ゴーギャンが制作したアトリエがあり、様々なことをモラルドから聞いたのではないかと思う。

 

ルドンもゴーギャンと親しかった。個性的すぎる性格からゴーギャンは同業画家たちをことごとく軽蔑していたが(その反動で攻撃を受けてパリにいられず、2回目のタヒチ滞在になったらしい)、ルドンだけは例外で、双方尊敬していた。ゴーギャンの訃報がパリにもたらされたのは8月であったが、ルドンは早速追悼を込めて『黒いプロフィール(ゴーギャン讃)』の制作を始めた。ゴーギャンはタヒチで、ルドンの「目」を意識した花を、タヒチには自生しないひまわりと一緒に描いた。

 

もう一人はコレクターのギュスターヴ・ファイエだった。ファイエは実際にゴーギャンに会ったことがあり、絵画の指導も受けていた。代表作の一つ『黄色いキリスト』の所有者でもあった。ファイエのメセナ活動は日本でほとんど紹介されていないが、芸術の広い範囲に及んでいて『エリオガバル』の上演もファイエなくして考えられない。

 


シャルル・ワルトナー

19〜20世紀前半に活躍した版画家、ローマ大賞を受賞しフランス版画界の王道をいった人だった。当時の版画家と同じく過去や同時代の巨匠の作品を数多く版画にした。活躍した時期は写真の出現と重なるが、芸術性を追求したので生き残ることができた。

 

ミレーの『晩鐘』で、(当時の)写真では表現困難な逆光の表現にワルトナーの技術が最大限に発揮されている。

 

 

Angelus

 

ミレーの原画

 

 

ワルトナーの作品でよく知られていると思われるのが、ルパージュの絵をもとにしたサラ・ベルナールの肖像かもしれない。後にフランスで発行された切手にも影響している(切手の版画家は別の人)。

 

 

Sarah Bernhardt

 

 

 

ローマ大賞を受賞する前にワルトナーはジェロームのアトリエで勉強していた。このアトリエで知り合ったのがルドンだった。共に同じ版画の世界で活躍したが題材への興味も技法も対照的なくらい相違し、それにも関わらず生涯友人であり続けた。ルドンはワルトナーの肖像を描き、1912年の「ルドンへのオマージュ」という企画では、ナビやフォーヴィズムの画家に混ざってワルトナーも連なっている。

 

 

ルドンが描いたワルトナー、1912年

 

ワルトナーはルドンからパステル画『花ー雲』を購入して所有していた。この作品について「花のような雲の浮かぶ空の下、水の上に漂う一隻の小舟。つけるべき題名は『花ー雲』だ。」とルドン自身がコメントしている。

 

 

花のような雲

 

もう一点、素晴らしい水彩画の所有者でもあった。

 

 

花と少女

 

 


クラヴィコード月間

伊勢から戻った後はクラヴィコードの演奏が集中して、ほぼ毎週演奏会が続くこととなった。

世の中でどれくらいクラヴィコードコンサートがあるかわからないけれども、音量が小さいので多数の人を前に聴かせることができず、現代のホール中心の演奏会ではとても限られる。

 

 

クラヴィコードには一つの世界がある。

 

 


伊勢の神楽舞

今回楽しみだったのが舞楽の上演で、毎年春(GW)と秋の2回一般公開されている。今年の演目のなかには、難しいために滅多に上演されず35年ぶりになる(左方抜頭)ものもあると、地元のニュースで知った。

 

出雲でも地元の神楽舞をみる機会はあったが、伊勢ではどんな舞なのだろうか。

 

出雲の神楽舞

 

今年の演目は『振鉾』、『左方抜頭』、『胡蝶』、『長慶子』(管絃のみ)。

 

舞台は野外で雨天のときは室内になる。火炎のような大きな太鼓が一対あり、普通の神楽と違うことを強調している。。

 

舞台

 

舞人たちが舞台に上がる前に管絃の演奏が始まる。龍笛の豊かな(西洋的でない)和音。『振鉾』は槍を持って舞うことから舞台を浄める意味があるようにみえる。

 

振鉾

 

次の『左方抜頭』は奈良の古い寺院でみたような西域風の面をつけて舞う。素人目にも、難しい舞であることが感じられる。

 

左方抜頭

 

ヨーロッパだったら春を告げるのはヒバリかつぐみ、日本の春は『胡蝶』、萌黄色の衣裳と山吹の花束が春らしい。『胡蝶』は平安時代、藤原忠房作曲の敦実親王振付で純和風の舞。この時代に完成度の高い舞楽があり、それが現代に伝えられていることが素晴らしい。

 

胡蝶

 

四人の舞人が『胡蝶』を舞うなか、本物の蝶が舞台に加わった。

 

『胡蝶』が終わり、舞人が舞台から降りてもそのまま管絃が演奏される。『長慶子』も平安時代で源博雅作という。

 

長慶子

 


伊勢2

翌日は内宮。五十鈴川にかかる橋を渡り、聖域に入る。

 

 

五十鈴川は

 

 

上高地に似た雰囲気がある

 

内宮

 


伊勢1

3年前に出雲に行ってから一度は伊勢にもと思い、ゴールデンウィークにようやく行くことができた。参詣の順序は諸説あるらしいけれど、泊まった場所の都合上初日は外宮になった。

 

伊勢の外宮、森のなか

 

少しだけ見える外宮

 

こっちは出雲、より人間世界に近い

 

夕方、外宮に向って光が射す

 

 


Paysages

昨年末からボルドーで開催されていたルドン展の図録を入手。

 

 

興味深いテーマがたくさんある。

『夢のなかで』は、思った通りオルフェウスとの関連がとても強いことを再認識できたのが収穫。

 


ユーハイムのコラボレーションケーキ(Vol 3)

ユーハイム・ディー・マイスターはペーター・シュミットのデザインスタジオとコラボレーションしたケーキを年4回出していてそれが楽しみだったけれども、契約が終わったのか昨年末から独自路線になっている。既に3回発表され、最新のものは「ガーデンパーティー」(Der Frühling ist da、春はここに)である。

 

復活祭に合わせうさぎが登場。公式ページによるとパウロという名前のうさぎ。もふもふ感をケーキクラムで表現している。

 

 

うさぎのパウロ

 

これまでの自我がいかにも強そうなドイツうさぎと違って、日本的なうさぎに落ち着いている。ちなみに過去のうさぎは、

 

 

うさぎへの手紙(36)

 

 

うさぎ先生(33)

 

以外と少なかった。

 


ノヴェレ Die Novelle

ゲーテの短編『ノヴェレ』について紹介することになり、久しぶりに読み返した。今回読んだのはポプラ社の百年文庫に収録された(もともとは人文書院版全集に収録)内藤濯訳である。この文庫にはムシルとアナトール・フランスの短編も入っている。

 

百年文庫「城」

ポプラ社、2010年

 

 

 

『ノヴェレ』はもともと『ヘルマンとドロテーア』の対作品となる叙事詩として『狩』というタイトルで構想された(1797年3月23日)。ホメーロス風ヘクサーメターの叙事詩が『狩』に適した形式であるか疑問が生じ、長期中断を経て1826年10月に再開、1827年2月に散文として完成、1828年に出版された。

 

1827年1月18日

私はいま散文でみごとに書きあげた。

対話

 

1827年1月18日

この短編の筋の進行を比喩であらわすとすると根から一本の緑の植物が芽生えてゆくところを想像してみるとよい、その植物はしばらくの間しっかりした茎からつやつやした緑の葉を四方八方へのばして、最後に花をつける。花は思いがけなく意外なものだったかもしれないが、まさに咲くべくして咲いたのだ。そればかりではない。そもそも緑の葉は花のためにあったので、花が咲かなければ骨折り損というものだ。

 

押えつけたり、克服したりすることのできないものは、力によって無理にねじ伏せるよりは、愛情や敬虔な感情の助けをかりて制御した方がよいということを示すのが、この小説の課題だったのだ。そうして、子供と獅子の姿にあらわされるこの美しい結末が、私を刺激してこの作品の完成に向わせたのだ。

対話

 

1827年1月29日

この短編小説にどんな題をつけたらよいか、ということであった。あれこれ題名をあげてみたがどうもしっくりこない。「どうかね」とゲーテはいった、「われわれは、これに『ノヴェレ』という題をつけようではないか。そもそもノヴェレとは、にわかに起こった前代未聞の出来事にほかならないからなのだ。これが本来の概念だ。

対話

 

1829年1月10日

(『ノヴェレ』は)私の存在のもっとも深いところから生れてきた。

書簡

 

トリノで狂気に陥る2ヶ月前、ニーチェは子供の頃に読んだ『ノヴェレ』の印象を書き残していた。

 

それは『獅子の短編』によるもので、奇妙なことに私がゲーテという存在を知った最初だった。それは一挙に「ゲーテ」という私の観念、私の嗜好をきめてしまった。澄みきった秋の味わい、物もなが熟れていき、 ―ひたすら心待ちに待っている気配、至上の霊的なものさえ漂うような十月の日ざし。金色で甘美で、やわらかな或るもの、決して(ゲーテがよく喩えられるような)大理石ではない、― そうしたものを私はゲーテ的と呼ぶのだ。

1888年11月

 

 

舞台

神聖ローマ帝国からナポレオンによる占領を経て、ヴィーン体制(1815)により成立したドイツの領邦国家の一つで、侯爵が統治する候国 Fürstentum。ここでは先代からドイツ的で理想的な国家運営がされている。

 

時期

秋はかなり深いものの、収穫が終わり狩がまだできる時期。おそらく10月頃で、ドイツ人はこの時期を「ゴールデンオクトーバー」と呼び、春に次いでこの季節の到来を喜ぶ。

 

10月

 

「にわかに起こった前代未聞の出来事」

現代の感覚からすると想像が困難な「機織りの音が騒音」と言われた時代には、町に起こった突然の火事、目の前に突然現われる猛獣は十分に「にわかに起こった前代未聞の出来事」となりうる。

 

しかし、本当の「前代未聞の出来事」は外的な事件でなく人間の内面に起こったことで、だからこそ「私の存在のもっとも深いところ」から生まれた。そのヒントになる記述が2カ所ある。

 

真昼どきになると、牧羊神が眠るので、その眠りをさまさないように、全自然が息をこらすのだと、古代の人たちは言ったが、その真昼どきの常として、あたり一帯はのどかに静まりかえっていた。(122)

 

「大いなる正午」、真昼どきは午前でも午後でもない特異的な瞬間である(これとよく似た瞬間が夏至の日になる一瞬)。世界のどこにも属さないこのような時間だから、外的な事件をきっかけとして人間のなかに存在不安ともいえる深淵が現われる。

 

侯爵は、さきほどからわが身を脅かしていた禍いの全貌が、今やっと呑みこめたような思いで、よりそうている奥方の方を見やった。(149)

 

この一節は事件を終息させるためにどういう方法をとるのか、という侯爵の問いに見世物興行主が子供に歌と詩で解決しますと実演し、皆が感動した後に出てくる。聡明な侯爵であれば、事件の報告がされた時点で全貌を把握できるのに、今やっと理解できたのはそれが外面的な危機ではなく内面に起こった存在不安の危機だったからである。

 

ライオンを宥めるために子供が歌う歌は、ダニエルの物語を下敷にしている。4連あり、第1連の単語を入れ替えながら意味を大きく変えず、新たにしていくのがまるで変奏曲を聴いているかのようである。翻訳も難しいに違いない。

 

第1連はダニエルの奇蹟を歌う。預言者はつつましい心で歌い、洞穴の獰猛なライオンを宥める。天使は預言者をはげます。ライオンはその歌に心を打たれ、おとなしくなる。

 

第2連は進行中の状況、子供がライオンを前にダニエルのようにつつましい心で歌う。ダニエルのときと違うのは、天使は子供の周りにいるが、何もしない「もう務めはおわったのです」。

 

第3連はライオンを宥めることができた愛の力を讃える。

 

第4連はつつましい心と歌の調べが猛獣をおとなしく従わせたと歌う。

 

預言者ダニエルは神と交流できた時代であったが、フランス革命後を生きる子供(現代人)には神からの関与はない。現代人はつつましい心と歌(詩と音楽)の力だけで難局を乗り切らなければならないし、そうすることができる、というのがゲーテの考えであった。ここで「前代未聞の出来事」の本質が何であったのか、侯爵がこの歌を聴いたあと、はじめて事件の全貌がのみこめたのかがわかってくる。

 

『ノヴェレ』の数年後、ついに完成された『ファウスト』の「神秘の合唱」には「書き得ぬことが、ここにて成就された」と歌われる。『ファウスト』に先だって『ノヴェレ』のなかで成就された。

 

ドイツ語の副読本として、朝日出版社から『ノヴェレ』が出ていた。

Johann Wolfgang von Goethe Novelle、木村直司編、Asahi Verlag、1984.

 

ドイツ語原書はAmazonの電子書籍が無料、Gutenberg projectにも収録されている。

 

YouTubeには朗読が複数アップロードされている。朗読は1時間弱、日本語訳はだいたい30分以内で読むことができる。

 


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