香りつき

小さい頃に読んだ付録つき雑誌で、香りつきポストカードやシールというのがあった。香料をカプセル化して印刷したもので、シュティフター生誕150年の切手もその技術で香りをつけている。

 

香りつき加工をした本がどれだけあるかわからないけれど、香り印刷を受託する会社があるので、どこかにあるのかもしれない。

 

先日古書で入手したのが、Osmotheque Versailles(歴史的な香水を保存しているアーカイヴ)から2009年に出版された、Si le parfum という本。古代のものと現代の代表的な香水の香りを実際に体験できる。

 

 

最初は、古代ローマのプリニウスが記述した香り、Jean Kerleo という古代香水のスペシャリストが復元したもの。花の香りのなかにねっとりとした粘着するものを感じる。

 

残りは現代、Quelques Fleurs は今も売られているが1912年に登場した。名前のとおりフローラル、ルドンがパステルで花を描いていた頃の香りがするのだろうか。

 

ジャン・ポール・ゲランの最初の作品 Ode、忘れな草やすみれの庭の陰に薔薇が漂う。今年になって、ゲランから洋梨の香りが出たらしいので気になる。

 

ランコムは洋梨の香りのする Oui があるのでよく知っている。選ばれたのは1962年の Tresor 、驚いたことに Oui とよく似ている。

 

ボードレールが香り加工の本を知っていたら、『悪の華』にも使ったかもしれない。


ザンクト・ガレンの詩篇

「それにしても」カドフェルは半ばひとり言のようにいった。「その本はいまどこにあるのだろう」

 

推理小説は滅多に読まないけれど、『薔薇の名前』とカドフェルシリーズは例外、人気のある同シリーズのなかで16作目『異端の徒弟』は1140年代の大陸ヨーロッパの異端の動きと彩飾写本をイメージできると楽しみが倍増する。とはいっても16作目の関心は幻の彩飾写本のほうに向かう(ネタバレだけど)。

 

文字だけの小説で図版がないから小説の描写から推測すると、問題の写本は、

写本名 『テオファヌ詩篇』

制作年 972年

制作地 ザンクト・ガレン修道院

制作者 修道士ダイアーメイド、スクリプトと写本画。献辞に由来と名前がある

 

所有者 オットー大帝→テオファヌ→オットー3世?→(不明)→エデッサ近郊の修道院→

    リズウッドのウィリアム→フォーチュナータ→コヴェントリー大聖堂→?

装丁  板に紫に染めたヴェラム貼り、円光を伴いハープを弾くダヴィデ像の彩飾刺繍

ページ 冒頭と末尾の数ページは紫に染められたヴェラムに金文字

    他のページは純白に近い上質な羊皮紙に青みがかったインク

    挿画と彩飾された文字多数

 

『テオファヌ詩篇』はザンクト・ガレン修道院で制作された。同修道院の彩飾写本はよく知られていて、カロリング時代に二つの有名な詩篇『黄金詩篇』と『フォルヒャルト詩篇』が制作されている。

 

口絵には、帝王らしく玉座に坐り、この世と天国との楽人たちに取り巻かれて、みずからも楽器を奏でながら歌っている詩篇作者が描かれている。

 

黄金詩篇

 

フォルヒャルト詩篇

 

アンセルム修道士の指摘どおり、972年にオットー2世とギリシアから来た花嫁テオファヌは結婚式を挙げるためにローマへ赴く途中、ザンクト・ガレン修道院に立ち寄っている。このときオットー2世はギリシア語の勉強のため修道院図書館(現在以上に有名な大図書館だった)から本を借り出し、そのまま返さなかったので現在も未返却記録を更新している(本の返却)。

 

ダイアーメイド Diarmaid という名前はアイルランド出身で、同名の聖人もいるが972年にザンクト・ガレンに在籍していたかどうかは確認できなかった。仮にいたとしても、この頃ザンクト・ガレンの写本制作活動は修道院自体の衰退もあって低調だった。同修道院出自のオットー朝時代の彩飾写本は20編を数えるのみで、前時代に及ばないものの復活するのは11世紀になってからである。このような状況で「値の知れぬほど貴重な」写本が制作できたか疑わしい。そうかといって、オットー朝写本の最高峰を制作したライヒェナウの修道院が活動を始めるのはまだ10年ほど早い。

 

紫は帝王の色だから、紫色のヴェラム皮に金文字となれば、帝王のためにつくられた本にちがいない……古代ローマでは、カエサルも同じ色を使っており……アーヘンやビザンティウムでは、王たちがカエサルを真似たといわれている。

 

帝王の紫と金

 

テオファヌはオットー2世の妃で結婚時13歳、後に夫が亡くなりオットー3世が成人するまでの間、摂政として政務を執り行った。皇帝不在のなか何かと反乱を起こそうと企むドイツやイタリアの貴族たち、カペー朝が創立されようとしているフランスの間で絶妙なバランスをとり、極力軍事行動を避けた。一時期は女帝として勅書に署名をしたが、31歳で亡くなった。

テオファヌ、ザンクト・パンタレオン教会のモザイク

 

(不明)の期間は150年近くに及ぶ。初めてわかるのがエデッサ近郊の修道院であるから、テオファヌの没後、オットー3世が相続したか、テオファヌの遺言でギリシア系修道院(例えばケルンのザンクト・パンタレオン修道院の守護聖人はギリシア人で生前篤く支援していた。そのため聖堂には現在テオファヌの棺がある)に寄贈され、そこからギリシアに渡ったのかもしれない。

 

ザンクト・パンタレオン教会、ケルン

 

詩篇は1143年6月にコヴェントリー司教に贈呈された後、再び行方がわからなくなった。これだけの価値のある写本であるから行き先は教皇庁か、トスカナの大図書館がふさわしい。後者だったら1327年末に図書館から出火した火災で焼失してしまった可能性が高い。

 


幻のヴィルトゥオーゾ

生活のため、一時期ヴァイオリン教師になることを考えていたルドンは多くの音楽家と親しかった。ルドンに肖像を描いてもらった音楽家たち(リッカルド・ビニェス、セヴラック、ミゲル・リョベートなど)のうちで、ヴァイリニストのアルマン・パランだけは情報が少ない。1863年リエージュに生まれ、パリに出て演奏活動を行う。1900年スコラ・カントルムのヴァイオリン教授となる。1892年からパラン四重奏団を組織してショーソンの遺作となった弦楽四重奏曲も初演している。

 

1913年

 

アルマン・パラン、右手前に座っている

 

パラン所有の作品

 

ルドンは晩年好きな作曲家に「ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲」を挙げていた。知人にスコラ・カントルム関係者が多かったことからパラン四重奏団の演奏を聴き、それがきっかけで肖像を描いたのかもしれない。パランもルドンの作品を所有していた。

 

ワグラム街129番地にルドンが引越した年のサロン・ドートンヌ、アンリ・マティスが出品した作品から「フォーヴ」が生まれた。その7年後、詩人で批評家のアンドレ・サルモンによりルドンはフォーヴィズムの先駆者と宣言された。実際、この頃のルドンの作品は「フォーヴ」に迫っている。

 

ルドンはフォーヴィズムに好意的だった。マティスも1900年に『ブッダの死』をルドンから購入しただけでなく、影響顕著な作品も描いている。

 

 

La mort de Bouddha 1899

 

マティスはルドンと同じく音楽好きで同じくヴァイオリンを弾いていた。さらに3人の子供たちを音楽家に、しかもヴィルトーゾにしようとした。

 

1916年に描かれた『音楽のレッスン』にはマティスの家族が描かれている。外には妻のメアリ、左下にはチェロを習わされた長男ジャンで当時戦時下動員されていた、姉マルグリットに教わりながらプレイエルのピアノで練習しているのは末子ピエール、ピアノの上にはハイドンの楽譜とヴァイオリンがみえる。ピエールはジャンの挫折後ヴァイオリンを習うことになり、親の期待が一身に集まってしまった。アンリはピエールのためにプレッセンドラのヴァイオリンを購入した。ここで描かれているヴァイオリンは、ピエールのために手に入る最上のものをといって購入したヴァイオリンかもしれない(親のヴァイオリンだという説明もある)。

 

 

音楽の練習、1916年

 

ピエールのために買ったヴァイオリンを売り、先生となったのがアルマン・パランだった。ピエールの回想によると、パラン先生は冗談一つ言わない真面目な先生で、名声と裏腹にドライで熱意がなかったそうである。家に帰るとアンリ直々の特訓が待っていた。アンリは演奏家向きで軽々と弾けたそうである。子供もそうだろうと思って特訓したが15歳の子供には重すぎた。結局は演奏家になるのを親は諦めなければならなかった。

 

ピエールの回想録にパランのことが少し出ていた。それによると20歳でコロン管弦楽団のコンサート・マスターとしてデビュー、パリに最初にベートーヴェン、シューマン、ブラームスなどドイツの作曲家と当時の現代フランス音楽(ラヴェルの弦楽四重奏曲のパリ初演)を紹介したとある。

 

演奏家になる代わりにピエールは画商となった。マティスの家には更に若い世代の芸術家が出入りし、画家の人脈と審美眼を養えたのかもしれない。出入りしたなかにバルテュスもいた。バルテュスの初めてのパリでの個展(1934年、スキャンダルになった個展)はピエールの画廊で開催された。ピエールはその後もバルテュスを支援し、アメリカでの初の個展もピエールのニューヨークの画廊で開いた。アメリカにはピエールの画廊を通して紹介され続けた。

 

もしパランが生徒にとって良い先生で、ピエールが音楽家の道を進んでいたら、バルテュスの幸運は別の形になっていたかもしれない。


Poème

大型本だけど薄い

 

 


ウシ対決!

中世の画家にとって、4福音書記者の象徴のうち牛が最も身近な動物だったように思う。実際に観察しているので、写実的にもデフォルメにも自由に選択できる。

 

宮廷派

 

 

山奥派

 

「東京で牛を飼う」という歌があったが、もし牛を飼うなら「ルカ」と名付ける。

 

(牝牛だったら?)

ルカ子


メルキュール・ミュジカル

Le Mercure Musical (La Revue Musicale S.I.M.), Volume 1, 15 May 1905.

 

 

創刊号表紙

 

音楽学者ルイ・ラロワが中心となって創刊した音楽雑誌、超有名な『メルキュール・ド・フランス』と直接関係はないようである。少し後になると、セヴラックも投稿したり、作品が批評されたりしている。

 

創刊号の編集は、

Colette Willy 1873-1954

Louis Laloy 1874-1944

Jean Marnold 1859-1935

Romain Rolland 1866-1944

Willy (Henry Gauthier-Villars) 1859-1931

 

すぐわかるロマン・ロランとコレット(バルテュスが拾った猫のミツはコレットの『踊り子ミツ』からとられた)、すぐにはわからないルイ・ラロワ以外は、調べてようやくわかった。

 

ジャン・マーノルド: 音楽学者で批評家、フランスでは初期のニーチェ翻訳・紹介で知られている。メルキュール・ド・フランス1906年3月号に『ペレアス』初演後のセヴラックについて言及がある。

 

ヴィリー: アンリ・ゴーティエ=ヴィラールのペンネームでコレットの夫(雑誌創刊時には別居していた)、音楽評論家でコレットの最初の小説の共作者、サティは「最も忠実な敵」と呼び、同誌創刊の直前に、ウィリーと(杖と傘で)決闘した。決闘の結末はサティが警察に逮捕されることで終わった。

暇なときはほとんど詩人(François  Caradec, Willy - Le père des Claudine)、セヴラックの歌曲『雪模様』Temps de neige (1903) の作詞者でもある。

 

創刊号のトップにラロワによる巻頭言「読者に」が掲載され、メルキュール・ミュジカル誌創刊の抱負のようなものを述べている。1905年というと、パリ音楽院に対抗するようにスコラ・カントルムが創立され、様々な対立が著しかった頃だった。同誌の立ち位置は中立的なもので、巻頭言の中で「我々のコンサートは不協和音がある。それを避けるのではなく、反対意見の衝突からむしろ、真実を探り出すこと」を目標としている。

 

巻頭言の末尾は、同誌のような編集方針に賛同してくれる人への感謝を述べているが、一人だけ挙げるとするなら、と前置きして、表紙に作品を提供したルドンにオマージュを捧げている。「特に色彩と線の名伏し難き音楽家、メートル・オディロン・ルドンからこの美しく思索的な肖像を借りている。言うまでもなく(同誌は)この象徴に値することを約束する」。

 

 

 

画家ではなく、音楽家と呼ばれたルドンが音楽雑誌の表紙に選んだのは、『眼を閉じて』のヴァリエーションだった。

 

 


手紙

モシュコフスキーは多くの弟子に教えていたので、今でも知られていたり録音がのこされているピアニストも多い。プライヴェートにレッスンを受けたという制限はあるものの、ギャビー・ロテもその一人であった。wikipediaによると、ドビュッシーの一人娘シュウシュウと同世代で仲がよかったそうである。ギャビーは1921年に、日本でもファンが多いロベール・カサドシュと結婚した。ロベールのほうはモシュコフスキーに師事したという記録を見つけられなかったけれど、代わりに興味深い手紙を見つけた。

 

1962年10月12日付、カサドシュ夫妻が住んでいたプリンストンからDr. E. Brodyという人に出された手紙で、Brodyの問い合わせへの回答である。

 

どんな質問なのかわからないがセヴラックについて質問したようで、カサドシュは(自筆を読みなれないので判読できていない箇所多数)「セヴラックの作品をよく弾いたが彼自身については何も知らなかった。セヴラックが亡くなる直前にパリの国民音楽協会でブランシュ・セルヴァの演奏を聴いた……セヴラックの作品全てを私は楽しんだ。ラモー、バッハ、フランク、フォーレ、ダンディとセヴラックは私のお気に入りだった」。といったことが書かれている。

 

カサドシュの演奏でセヴラックの作品が何かのこっていないか探してみると1曲だけあった。『騾馬引きの帰還』(セルダーニュ)で1935年頃の録音だった。

 

 

 

騾馬引きの帰還、ロベール・カサドシュ

 

 

 


モシュコフスキー

セヴラックが表紙になったRevue Musica 111号の一つ前(110号、1911年11月)の表紙を飾ったのは、モーリッツ・モシュコフスキーだった。前半生は演奏家、後半生は作曲家で優れたピアノ教師として有名で、1897年以来パリに住んでいたが、健康状態が悪化して弟子をとらなくなっていた頃である(wikipediaによる)。

 

Musica誌のモシュコフスキー

背景にアップライトピアノがみえるが、後述の高さ調整用の楽譜はおいてない

 

同じwikipediaの記事によると、ドビュッシーを「頭のおかしい芸術家」と考えていたようだった。そのモシュコフスキーとドビュッシーが同じ場所に居合わせた写真がある。

 

Prix Erard, 1903年

 

中央のポスター(雑誌のMusicaとは関係ない)の左下にモシュコフスキー、その左に半分顔が隠れてドビュッシーが写っている。他に知っている人を探すと、いちばん手前の右で椅子に座っているのがヴァイオリニストのアルマン・パラン、ルドンが横顔を描きリトグラフを制作した。

 

現在モシュコフスキーの作品というと、練習曲以外あまり知られていないが、ピアノ協奏曲を2曲作曲している。そのうち1曲は最近まで行方不明だった。再びwikipedia(日本語)の記事を引用すると、

 

自叙伝を書いて欲しいというドイツ系アメリカ人の作曲家、エルンスト・ペラボ(注)からの依頼を受けた時、モシュコフスキはこう返答を書き送った。「もし以下の2つの理由がなければ、私のピアノ協奏曲の楽譜を喜んで送らせてもらったのですが。第一に、それに価値がないこと。第二に、私がより良い作品の勉強に取り組むときに、ピアノの椅子を高くするのにそれが一番便利であること(その楽譜は400ページあるのです)。

 

(注)ここでの作品はピアノ協奏曲ロ短調 Op.3で、この曲は出版されておらずおそらく散逸したものと思われる。ピアノ協奏曲ホ長調 Op.59はヨーゼフ・ホフマンに献呈されており、1899年に出版されている。

 

作品3の協奏曲が再発見され(したがってwikipediaの記事は古い)、復活初演されたのは2014年、その直後に録音もされてYou Tubeでも聴くことができる。このピアノ協奏曲は、若い頃に作曲されヴァイマールで1875年に作曲者自身のピアノで初演された。初演後間もなく行われた私的演奏会では、作品を気に入ったリストがオーケストラパートをピアノを担当して演奏した。

 

 

ピアノ協奏曲は出版されず、自筆譜は作曲家がずっと所持して作曲する際にピアノの椅子の高さ調整に使われていた。

 

その自筆譜が行方不明になったのに、意外なことにルドンが関わっている。といっても、画家のルドンではなく、一人息子アリと結婚したシュザンヌ・ルドンである。シュザンヌのことは一切わからないが、オディロンの没後でカミーユはまだ存命していたときにアリと結婚した。シュザンヌは音楽に関心が高かったようで、Bojan AssenovのMoritz Moszkowski - eine Werkmonographie によると、モシュコフスキーが亡くなり、遺品が競売にかけられたとき、非常に安い金額で3冊の日記帳と作品3の協奏曲の自筆譜を落札したという。

 

ルドン(オディロン)とモシュコフスキーとの接点は、スコラ・カントルムではないかと考えている。セヴラックは同校出身であるし、ルドンの自宅から近いスコラ・カントルムの演奏会も頻繁に聴いていたようである。モシュコフスキーもスコラ・カントルムに出入りし、シュザンヌとは友人であった。

 

1961年までシュザンヌの所有で、シュザンヌは1961年にこれらの遺品をフランス国立図書館に寄贈した。地方の図書館ならともかくBNFの所蔵本になりながら行方知らずになったのは、モシュコフスキー自身にも責任があり、別の作品に作品番号3をつけてしまったから、作品3の協奏曲はないことになってしまった。最近になって再発見された事情はよくわからない。

 

演奏時間約50分を要するピアノ協奏曲は、Symetrieから楽譜が出版され、webには録音もリンクされている。

 

 


古い音楽誌

怪盗ルパンが初めて出版されたのは1905年、原作者モーリス・ルブランの友人で、出版・編集者ピエール・ラフィットに勧められたのがきっかけだった。ルブランの妹はオペラ歌手でメーテルランクと同棲し事実婚状態だったことから、『ペレアス』の初演で当初ヒロイン役になる予定だった。ところがドビュッシーはメアリー・ガーデンを起用し訴訟問題にまで発展してしまった。

 

ラフィットは多くの雑誌を創刊し、音楽雑誌 Revue Musica (1902〜)もその一つだった。月刊誌で表紙は当時活躍した演奏家や作曲家(稀に既に亡くなっている作曲家)のポートレート写真で飾られた。

 

17号、メアリー・ガーデン

 

33号、ヤン・クーベリック

 

36号、フォーレ

 

92号、マーラー

 

110号、モシュコフスキー

 

Musica誌の表紙を飾った音楽家たちは演奏風景だったり、書斎らしき場所にいる姿だったりで、今の音楽雑誌とそれほど変わったところはない。表紙掲載にあたっては、本人から写真提供してもらい、承諾のうえだったと思われる。

 

セヴラックもMusica誌の表紙を飾った。111号(1911年12月号)で、それ以前にも記事を投稿したり、姉妹誌?に楽譜が掲載されたりしていた。

 

111号の表紙写真は、これまでの号(と、これからの号)の表紙と全く違ったものになっていた。

 

111号、セヴラック

 

音楽雑誌というより『明るいローラゲ』、『ラングドックの農業』、『南仏田舎生活』といった雑誌の表紙にふさわしく、ドヤ顏で登場したセヴラックの姿はどうみても音楽家にみえない。この写真自体は前から知っていたものの、雑誌の表紙を飾っていたとは知らなかった。既にセレに住み、パリへの文化的集中を批判して「田舎の音楽家」を標榜していたから、敢えてこの写真を選んだのではないかと思う。

 

画像ではわかりにくいが、写真の下に、M. Deodat de Severac とあり、Baronを記載していない(サン・フェリックスの生家にあった写真には、Baron de Severacと書き込まれていた。

 

編集者のラフィットは、アウトドアスポーツが好きで、ルパンにも注目するくらいだから、田舎風ポートレイトを歓迎したと推測されるが、インパクトは大きかったのではないかと思う。。


クッキー

おやつに欠かせないのが素朴な味のクッキー、勝手にランゴバルドクッキーと名付けて(家で)親しまれている。

 

 

そのものが見当たらないけど、ランゴバルド風というとこんな感じ。

 


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