中世修道院の小さな庭から

中世修道院の小さな庭から

大塚満津子・大塚隆一郎/監訳

新潮社、2018年

 

 

思いがけない本が出た。というのも、カロリング時代の著作が日本で出版されるのはとてもまれだからである。

思いつくままに挙げてみても、

 アインハルト、カロルス大帝伝

 ニタルト、カロリング帝国の統一と分割

 パウルス・ディアコヌス、ランゴバルドの歴史

 ヴィドゥキント、ザクセン人の事績

 カロリングルネサンスに収録された様々な著作

 

といった歴史か神学関係の著作がほとんどだった。

出版不況のなか、敢えてこのような本を出した訳者、出版社の努力は素晴らしい。

 

出版されたのはヴァラフリート・ストラボの詩、Hortulusの名前で知られていた。種村季弘が『ビンゲンのヒルデガルトの世界』(1994年)のなかで触れ、その前に澁澤龍彦が紹介していた。Stundenbirneにも2009年の記事に「残念ながらHortulusはまだ日本語に訳されていないが」と書いていた。

 

内容は、Horulusの翻訳、修道院について、ハーブについてである。翻訳はラテン語原典ではなく、Payneの英訳版(1966年)からの重訳である。他にJames Mitchellの英訳版が2009年に出版され、入手も容易であるが本書で言及はない。ドイツ語版は複数出版されている。手許にあるのは、ライヒェナウで購入したドイツ語版(最初の印刷版の羅独対訳)とMitchell版の2種類である。なお、ラテン語原典はネットを探すと簡単に見つかる。

 

ハーブについての解説は訳者の専門なせいか力が入っている。特にプリニウス、ディオスコリデス、ボールドの植物誌に記載されている効能効果の比較は他になく充実している。

 

作者はヴァラフリート・ストラボ(ストラボは渾名で姓ではない。脱線するとレオナルド・ダ・ヴィンチを「ダビンチ」と呼ぶのと同様間違っている)、カロリング・ルネサンスと言われた時代にライヒェナウの聖マリア・聖マルクス修道院の院長となった人で、先に挙げたカルロス大帝伝にもあとがきをつけている。

 

 

再現されたヴァラフリート・ストラボの薬草園

 

修道院、特にライヒェナウ修道院についての解説は残念ながら大いに問題がある。気になるところを挙げていくと、

 

ヴァラフリド・ストラボはこの修道院が文化的に頂点であった時代に生きて、そして彼の死によってライヘナウ島のよき時代は終わった。(12)

 

カロリング時代のライヒェナウを「金の時代」、オットー朝時代を「銀の時代」と喩えられている。教育や文芸はカロリング時代が最盛期であったが、オットー朝時代にはヴィティゴーヴォ、ベルノやヘルマヌスがいる。彩飾写本はヴァラフリートよりもベルノ時代のほうが圧倒的にピークであったし、ヘルマヌスの著作はライヒェナウ全史上でも最高のものであった。

 

ザクセンのコルビー(53)

 

おそらく似た名前のコルビー修道院 Abbaye Saint-Pierre de Corbie と、コルヴァイ修道院 Abtei Corvey を混同している。もっともコルヴァイ修道院はコルビー修道院によって設置されたのが起源だった。

 

このライヘナウ修道院の中で、輩出された学者と教師の中で、最も傑出していたのは、ハイト(Heito)、ヴェッティ(Wetti)、グリマルト(Grimald)、タット(Tatto)、ヘルマン(Hermann)そして、ストラボであった。(54)

 

ヘルマンは注がついていて、「年代記作者で、最古のドイツ年代記を執筆した」とある。

記述からヘルマヌス・コントラクトゥスのこととわかるが、カロリング時代ではない。また、ヘルマヌス以前にドイツ年代記はいくつも書かれている。有名なのはコルヴァイのヴィドゥキントの年代記で日本語訳もある。

 Annales Laurissenses minores, 9th, Lorsch

 Saxonicae Annales Quedlinburgenses, 1008, Klster Quedlinburg

 Chronicon Suevicum universale, 1045, Reichenau, Hermannus Contractus

 Chronicon Thietmari, 1012, Merseburg, Thietmar

 Gesta Chuonradi II imperatoris, 1033?, Wipo

 Res gestae saxonicae sive annalium libri tres, ca. 967, Kloster Corvey, Widukindus Corbeius

 Chronicon, 906, Regino Prumiensis, Kloster Prüm

 

ザンクト・ガレンの庭

最も有名な修道院の庭は、スイスのザンクト・ガレンの修道院である。その名の由来は、7世紀に30年間、そこに住んだ、瞑想と宗教生活をしたアイルランドの修道士、ガルス(Gallus)からである。(58)

 

基本的なところで誤解があるのではないかと思う。「ザンクト・ガレンのプラン」(ここに小さいけど全体をのせてある)は、ライヒェナウ修道院長ハイトーI世の時代820年頃に筆写されザンクト・ガレン修道院長ゴツベルトに贈られたことがプランの献辞に記載されている。ライヒェナウもザンクト・ガレンもプラン通りに建てられたことはなかった。

 

ガルスの園芸技術はよく知られている。理想的なベネディクト修道院の様式を展開した。その様式は四つの庭から構成され、それぞれの庭に沿って植物が育てられていた。(58-59)

 

(ザンクト・ガレンのプランの図版)

 

ガルスが園芸技術を持っていたかは不明、ガルスはアイルランド出身でベネディクトゥスの戒律に従っていなかった。ザンクト・ガレンがベネディクトゥスの戒律を採用したのはガルスの没後である。注に「ガリアに宣教して、ザンクト・ガレン修道院を建てた」とあるが、ガルス自身は修道院を設立せず、次代のオトマールが設立した。

 

ザンクト・ガレンの修道士たちは、9世紀の間、ガルスの理念を広げた。四つの庭園は、それら独自の目的により名前を付けられていた。墓地、回廊、施療院、そして厨房。それらの庭園は、二つの主たる目的を反映していた。神および人間に役立つため。

厨房と施療院の庭園は、祈りと瞑想の場であり、穏やかであることを意味した。より華麗な庭のいくつかは、中央に装飾的な噴水が設置されていた。

 

「祈りと瞑想の場」の庭は回廊のはずで、ザンクト・ガレン修道院もライヒェナウ修道院も共に聖堂の北側に直結していた。「プラン」では南側になっている。噴水があったかは確認されていない。噴水自体はローマ時代にあり、エックハルトの説教にも登場している。ザンクト・ガレンの回廊に噴水があれば、発掘で配管が確認できるように思われるがそれはなかった。シトー会では洗手堂が回廊のどこかに設置されていた。

 

墓地は、庭として囲まれた空間(カンポ・サント)を形成することがあった。「プラン」からは墓標の周囲に果樹が植えられていたことがわかる。

 

施療院は医療を施す役割上、独自に薬草園を持った。「カドフェル」シリーズをみるとわかりやすい。

 

厨房は修道院に所属する人員の食事を賄うから、大量の麦や野菜が必要で「庭」というには小さすぎる(神からみたら庭にしかみえないかもしれないが)。

 

本書で最も問題なのが、「プラン」という素晴らしい資料がありながら、記載されている薬草園と詩の関係について解説が一切ないことである。「プラン」の左上の四角がこの薬草園にあたり、植えられている薬草名まで記されている。しかもいくつかはヴァラフリートの詩と一致する。実際「プラン」の配置をもとに復元されたハーブ園がライヒェナウとロルシュとオランダにあり、本書にもライヒェナウの薬草園の写真(53)が掲載されている。

 

学習は、七つの学芸に系統立てられた ー文法、修辞学、論理学、算術、音楽、幾何学、そして天文学ー である。(60)

 

いわゆるリベラル・アーツ、体系化はカロリング朝以前にされていた。

 


クマ700年目のリベンジ

Brother Hugo and the bear

Text: Katy Beebe, Illustration: S. D. Schindler

Eerdmans Books, 2014.

ユーゴ修道士と本を愛しすぎたクマ

千葉茂樹訳、光村教育図書、2015年

 

 

 

天気の良い日に偶然見つけた。

国語の教科書のイメージしかなかった光村教育図書から刊行されていた絵本。

 

12世紀、クリュニー会全盛期の修道院長ペトルス・ウェネラビリスが映画で話題になったグランド・シャルトルーズのグイゴ宛書簡に記された「アウグスティヌスとヒエロニムスの書簡集がクマに食べられてしまった」という実話をもとになしている。

 

絵本では触れてないけれども、クマが「蜜のように甘い」といわれたクレルヴォーのベルナルドゥスの説教集ではなく、アウグスティヌスの書簡集という一見シブそうな書物を食べたのは、700年前まで遡る理由があった。ヒッポ司教アウグスティヌスは、動物全般に好意的でなかったが、特にクマとライオンは敵視し、区別さえしようとしなかったばかりか、悪魔と同一視さえした。クマはそれまで、「百獣の王」として特にゲルマン社会から崇められていたのに、である(ミシェル・パストゥロー『熊の歴史』による)。パストゥローは、アウグスティヌスが嫌っていたのは、個人的な体験があったのではないかと推測している。

 

アウグスティヌスの影響は中世にわたって絶大で、おかげでクマは組織的に排除される対象となってしまった。こうした背景からクマは書簡集を食べることで復讐した。ライオンはヒエロニムスと縁の深い動物で、アウグスティヌスの敵視にもかかわらず次第に地位が上がったので(なんといっても聖マルコの象徴にもなった)復讐の必要もなくなったのかもしれない。

 

 

 

 

ベステアリウム、ボードリアン写本

 

アウグスティヌス書簡集を借り出してクマに食べられてしまったのが、絵本の主人公ユーゴだった。そのことを知らされた修道院長(ペトルス?)は、食材ならぬ贖罪(ちょうど四旬節の1日目だった)を言い渡した。

 

いますぐ、グランド・シャルトルーズ修道院へおもむいて、聖アウグスティヌスの本をかりだし、全てを書き写すのです。一言一句もらさずに。そして、写本をつくり、わが修道院の図書館におさめること。

 

12世紀の書物の価値は立派な家屋1件に匹敵し、彩飾写本であれば礼拝堂くらいに匹敵した。修道院長は簡単に書き写せと命じているが、書写作業は「3本の指でだけでなく全身で苦しんでいる」(薔薇の名前)苦行だった。

 

思い出すのはタルコフスキーの『アンドレイ・ルブーリョフ』の一場面。修道院長に悪態をついて修道院から放浪に出た修道士が、生活できずに再び修道院に戻ってきた。修道院長は迎え入れたが贖罪のため「聖書を10回書き写せ」と命じた。その言葉に修道士は絶望し、他の修道士も厳しい罰に恐れたシーンだった。それほど書写作業は辛い作業だった。

 

ユーゴ修道士はグラン・シャルトルーズに本を借りに行く。四旬節は3〜4月でクマなら冬眠しているように思うが、ヨーロッパには冬眠しない種類もいるそうである。

 

先ほどの『熊の歴史』には、グランド・シャルトルーズ修道院の山奥にたくさんクマが住んでいて、大量の骨が1988に発見されたことが記されていた。『大いなる沈黙』で映し出された風景も、いかにもクマが住んでいそうな山だった。

 

 

グランド・シャルトルーズというより、クリュニー第3聖堂

 

クマに後をつけられながらも無事に帰院したものの、ユーゴは写本制作の経験がなかったらしい。困っていると親切な兄弟(同僚修道士)が面倒をみてくれた。絵本では修道士がそれぞれの名前にふさわしい援助をする。例えば、

 

カドモン修道士は羊皮をくれた。

ベーダの『英国民教会史』に、「カドモンは反芻している清潔な動物のように、聴いて覚えたことをすべて非常に魅力ある歌に変えた」という記述がある。

 

バーソロミュー修道士はその皮を水にひたしてから木枠にはり、表面をなめらかにした。

名前から皮はぴったり。

 

イルドベール修道士は、罫線をひいてくれた。

少し前の時代にル・マン司教で著述家のイルドベールがいた。著述家だから罫線は馴染みが深い。

 

マルタン修道士は、ペンとしてつかうガチョウの羽をくれた。

トゥールの聖マルタンはガチョウと縁の深い聖人、サン・マルタン祭にはガチョウを食べる。

 

ジェローム修道士は、書き損じをけずりとるためのぺんとナイフと、机をかしてくれた。

ラテン名ヒエロニムス、ギリシア語からラテン語に聖書を訳した。書斎で書写する姿が多く描かれた。

 

めでたく写本は完成、筆写元の本は持ち主のところに返しに行くことになった。

このあと結末がどうなるか、それは読んでみてのお楽しみであるが、ユーゴ修道士はクリュニー会修道士ではなくザンクト・ガレン修道院の修道士だったら、クマは寄りつかなかったばかりか、進んで助けてくれたかもしれない(というより、そもそも食べることをしなかった)。クマは後に修道院が建つ地に定住した聖ガルスに、食べ物を届けていたのである。

 

 

食べ物を届けるクマ、トゥオティロ

 

 

イラストレーターも12世紀風に装飾している

 

 


ノヴェレ Die Novelle

ゲーテの短編『ノヴェレ』について紹介することになり、久しぶりに読み返した。今回読んだのはポプラ社の百年文庫に収録された(もともとは人文書院版全集に収録)内藤濯訳である。この文庫にはムシルとアナトール・フランスの短編も入っている。

 

百年文庫「城」

ポプラ社、2010年

 

 

 

『ノヴェレ』はもともと『ヘルマンとドロテーア』の対作品となる叙事詩として『狩』というタイトルで構想された(1797年3月23日)。ホメーロス風ヘクサーメターの叙事詩が『狩』に適した形式であるか疑問が生じ、長期中断を経て1826年10月に再開、1827年2月に散文として完成、1828年に出版された。

 

1827年1月18日

私はいま散文でみごとに書きあげた。

対話

 

1827年1月18日

この短編の筋の進行を比喩であらわすとすると根から一本の緑の植物が芽生えてゆくところを想像してみるとよい、その植物はしばらくの間しっかりした茎からつやつやした緑の葉を四方八方へのばして、最後に花をつける。花は思いがけなく意外なものだったかもしれないが、まさに咲くべくして咲いたのだ。そればかりではない。そもそも緑の葉は花のためにあったので、花が咲かなければ骨折り損というものだ。

 

押えつけたり、克服したりすることのできないものは、力によって無理にねじ伏せるよりは、愛情や敬虔な感情の助けをかりて制御した方がよいということを示すのが、この小説の課題だったのだ。そうして、子供と獅子の姿にあらわされるこの美しい結末が、私を刺激してこの作品の完成に向わせたのだ。

対話

 

1827年1月29日

この短編小説にどんな題をつけたらよいか、ということであった。あれこれ題名をあげてみたがどうもしっくりこない。「どうかね」とゲーテはいった、「われわれは、これに『ノヴェレ』という題をつけようではないか。そもそもノヴェレとは、にわかに起こった前代未聞の出来事にほかならないからなのだ。これが本来の概念だ。

対話

 

1829年1月10日

(『ノヴェレ』は)私の存在のもっとも深いところから生れてきた。

書簡

 

トリノで狂気に陥る2ヶ月前、ニーチェは子供の頃に読んだ『ノヴェレ』の印象を書き残していた。

 

それは『獅子の短編』によるもので、奇妙なことに私がゲーテという存在を知った最初だった。それは一挙に「ゲーテ」という私の観念、私の嗜好をきめてしまった。澄みきった秋の味わい、物もなが熟れていき、 ―ひたすら心待ちに待っている気配、至上の霊的なものさえ漂うような十月の日ざし。金色で甘美で、やわらかな或るもの、決して(ゲーテがよく喩えられるような)大理石ではない、― そうしたものを私はゲーテ的と呼ぶのだ。

1888年11月

 

 

舞台

神聖ローマ帝国からナポレオンによる占領を経て、ヴィーン体制(1815)により成立したドイツの領邦国家の一つで、侯爵が統治する候国 Fürstentum。ここでは先代からドイツ的で理想的な国家運営がされている。

 

時期

秋はかなり深いものの、収穫が終わり狩がまだできる時期。おそらく10月頃で、ドイツ人はこの時期を「ゴールデンオクトーバー」と呼び、春に次いでこの季節の到来を喜ぶ。

 

10月

 

「にわかに起こった前代未聞の出来事」

現代の感覚からすると想像が困難な「機織りの音が騒音」と言われた時代には、町に起こった突然の火事、目の前に突然現われる猛獣は十分に「にわかに起こった前代未聞の出来事」となりうる。

 

しかし、本当の「前代未聞の出来事」は外的な事件でなく人間の内面に起こったことで、だからこそ「私の存在のもっとも深いところ」から生まれた。そのヒントになる記述が2カ所ある。

 

真昼どきになると、牧羊神が眠るので、その眠りをさまさないように、全自然が息をこらすのだと、古代の人たちは言ったが、その真昼どきの常として、あたり一帯はのどかに静まりかえっていた。(122)

 

「大いなる正午」、真昼どきは午前でも午後でもない特異的な瞬間である(これとよく似た瞬間が夏至の日になる一瞬)。世界のどこにも属さないこのような時間だから、外的な事件をきっかけとして人間のなかに存在不安ともいえる深淵が現われる。

 

侯爵は、さきほどからわが身を脅かしていた禍いの全貌が、今やっと呑みこめたような思いで、よりそうている奥方の方を見やった。(149)

 

この一節は事件を終息させるためにどういう方法をとるのか、という侯爵の問いに見世物興行主が子供に歌と詩で解決しますと実演し、皆が感動した後に出てくる。聡明な侯爵であれば、事件の報告がされた時点で全貌を把握できるのに、今やっと理解できたのはそれが外面的な危機ではなく内面に起こった存在不安の危機だったからである。

 

ライオンを宥めるために子供が歌う歌は、ダニエルの物語を下敷にしている。4連あり、第1連の単語を入れ替えながら意味を大きく変えず、新たにしていくのがまるで変奏曲を聴いているかのようである。翻訳も難しいに違いない。

 

第1連はダニエルの奇蹟を歌う。預言者はつつましい心で歌い、洞穴の獰猛なライオンを宥める。天使は預言者をはげます。ライオンはその歌に心を打たれ、おとなしくなる。

 

第2連は進行中の状況、子供がライオンを前にダニエルのようにつつましい心で歌う。ダニエルのときと違うのは、天使は子供の周りにいるが、何もしない「もう務めはおわったのです」。

 

第3連はライオンを宥めることができた愛の力を讃える。

 

第4連はつつましい心と歌の調べが猛獣をおとなしく従わせたと歌う。

 

預言者ダニエルは神と交流できた時代であったが、フランス革命後を生きる子供(現代人)には神からの関与はない。現代人はつつましい心と歌(詩と音楽)の力だけで難局を乗り切らなければならないし、そうすることができる、というのがゲーテの考えであった。ここで「前代未聞の出来事」の本質が何であったのか、侯爵がこの歌を聴いたあと、はじめて事件の全貌がのみこめたのかがわかってくる。

 

『ノヴェレ』の数年後、ついに完成された『ファウスト』の「神秘の合唱」には「書き得ぬことが、ここにて成就された」と歌われる。『ファウスト』に先だって『ノヴェレ』のなかで成就された。

 

ドイツ語の副読本として、朝日出版社から『ノヴェレ』が出ていた。

Johann Wolfgang von Goethe Novelle、木村直司編、Asahi Verlag、1984.

 

ドイツ語原書はAmazonの電子書籍が無料、Gutenberg projectにも収録されている。

 

YouTubeには朗読が複数アップロードされている。朗読は1時間弱、日本語訳はだいたい30分以内で読むことができる。

 


ブレンダン関連本

designing the Secret of Kells
Tomm Moore & Ross Stewart
Cartoon Saloon, Ireland, 2014.

映画公開(2009年)後の2014年に出版された、アニメの原画/設定資料をもとにしたデザイン本。これまでもストーリーブックのようなものが出版されていたが、この本については最近まで出版されていたことを知らずにいた。Amazon(JP)で新刊本はなく(当時、今は出ているが高い)古書で出ていたものも価格はかなり高く、洋書店を通じて入手することにした。アイルランドに在庫があることがわかり直接取り寄せ、途中夏休みが入ったので1.5ヶ月ほどかかった。価格はAmazonよりかなり安かった。


表紙


太古のヨーロッパの森に建てられた修道院はきっとこんな感じ

アニメのプロジェクトが開始したのは1999年、日本の商業アニメと違ってたっぷり10年の時間をかけて制作された。


キャラクターは『ケルズの書』をもとにデザインされた

ジブリやディズニーなど大作アニメと同じく、いったん設定されていたものが削除や変更されてしまって目にすることがなくなった部分も多い。膨大な量のデザインから制作されたことがわかる。最初の頃はかなりヨーロッパのコミック調だったようである。

初期(1999年)のイメージ

特にこのアニメでは『ケルズの書』のXρページ(最後に登場)を再び描き、しかも動かさなければならないからその部分だけでもかなりの労力がかかっている。最終的にアニメ作品が素晴らしいのは、観る者にとってそういった裏の苦労が感じられないところにある。

続き

ハンス・カストルプが一兵士として戦場で行軍したとき口ずさんでいたのはシューベルトの『菩提樹』だった。

『ポーの一族』は30年くらい前に初めて読み、そのとき巻末に「完」や「終わり」と記されていないことに気付いていた。時を超えたバンパネラの話なので、きっと続編が出るのではないかと思っていた。

その間に東西ドイツが統一、キリアンも髪を切ったのかもしれないと思いながら更に待ち、今年になっていよいよ続刊がでるというニュースがあった。



続刊は前回最終場面の続きではなくて、やや時間を遡った第二次大戦中のイギリス。ここでシューベルトの『春の夢』が歌われるので、冒頭の『魔の山』の場面を思い出してしまった。

程よく昔のスタイルが残り、Intermezzoという感じ。後編はどうなるか。

ヴィッティングハウゼンの廃墟

ライヒェナウの歴代修道院長リストに Wittigowo という名前があり、2番目の全盛期と共に記憶されている。名前が似ていることからヴィティコー Witiko と関係があるのではないかと思っている。

シュティフターが1842年に発表した『喬木林』Der Hochwald の冒頭に次のような記述がある。

森の娘モルダウの流れを、これまで書いてきたように遠くまで見渡すことのできる地点に、くずれおちた騎士の城がある。谷から見れば空色ののさいころのようで、広い森の帯の上の緑に浮かんでいる城である。……太古の貴族の城で、昔そこに残忍な騎士たちが住んでいたために、今でも魔法にかけられていて、あらしに吹かれようと日光に焼かれようと、何千年にわたって崩れ落ちることができないでいるのだと伝えられている(高木久雄訳)。

『喬木林』はシュティフターの時代から200年ほどまえにこの城に住んでいたハインリッヒ・ヴィッティングハウゼン(ドイツ語でヴィティコーの家)の娘たちのお話で、ヴィティコーの最後の末裔だったのかもしれない。シュティフターが訪れたときは廃墟になっていた。


ヴィッティングハウゼンの廃墟、シュティフター

ヴィッティングハウゼンの城はモルダウの南、ドイツ、チェコ、オーストリア3国の国境に近い森の中で、シュティフターの出身地オーバープラーンにも近い。ヴィッティングハウゼンの城は修復され、Street view で現状をみることができる。


Wittinghausen


上空から、Google map


城の内部、白地に五弁の薔薇はヴィティコーの紋章


城からみるモルダウ、この向こうにオーバープラーンがある

『喬木林』のあと、この城を建てた半ば架空の人物ヴィティコーを主人公にした小説を構想していく。

12世紀

レッシングという作家がいて、劇作品に『賢者ナータン』があるということはかなり前から知っていても、それ以上積極的に読もうと思ったことはなかった。ちょうど松本工房から新訳が出て、読む機会ができた。

賢者ナータン 五幕の劇詩
レッシング、市川明訳
松本工房、2016年



12世紀後半、クルド出身のサラディンがエルサレムの領主だった時代。フランスでは既にゴシックの聖堂が建ち始めている。主人公ナータン(ユダヤ教)と養女レヒャ(無宗教)、サラディン(イスラム教)、神殿騎士(カトリック)が主要登場人物で、宗教的寛容がテーマとなっている。この寛容さが今の時代最も必要なものであることを思うと、『賢者ナータン』は価値を全く失っていない。

『タウリス島のイフィゲーニエ』『こわれがめ』と続いたドイツ語圏演劇翻訳シリーズの3冊目、これまでも対訳の素晴らしい翻訳だったので、続刊もとても楽しみである。

奇妙な名前の王子が活躍する話

王子ビリビンカー物語
ヴィーラント、小黒康正訳、同学社、2016年

ヴィーラントの作品に関心を持ち出したら、ちょうどのタイミングで新訳が出ていた。長編小説のなかの挿話で、世界最初の創作メールヒェンという。



後のゲーテに比べると、荒削りなところがあるものの、既にこのジャンルに必要な要素が出揃い、確立しているように思える。こうなると、長編のほうも読んでみたい。

カボチャがこの島では名士であることを予想できましたならば、きっともっとよく注意したでありましょう。

カボチャの姿かたちはたとえどんなに考察に耐えないにしても、先験的には考察に向いているからです。



野菜の島のカボチャ

いないのに遍在しているという人たち

アブデラの人びと
クリストーフ・マルティン・ヴィーラント、義則孝夫訳、三修社、1993年



家でドイツの劇作家クロプシュトックが話題になり、それがきっかけでクリストーフ・マルティン・ヴィーラントのことも話題に上った。ヴィーラントを初めて知ったのは、ゲーテの『神々、英雄たち、ヴィーラント』という戯曲のなかでさんざんに戯画化されていたのを読んだとき(高校生のとき)で、実は素晴らしい小説を書いているということをつい最近まで知らなかった。

ゲーテも戯曲のなかでは茶化したものの、ヴィーラントはユーモア(ドイツ人には珍しい)を持って応えたこともあって和解に至り、「これまで会った最も偉大な人物」と作品だけでなく人物も高く評価していた。

そのヴィーラントの小説『アブデラの人びと』は、古代ギリシャにあったアブデラという都市が舞台になっている。 そこの住人は愚かとされ、ギリシャの格言になっているのは、ライプチヒ近郊のリッパハ村みたいなもの。

都市国家アブデラは古代ギリシャで3番目に栄えた町であったが、衰退し消滅してしまう。18世紀当時、伝説の彼方にあったアブデラは場所さえわからず、著述家の文献の中にしか存在していなかったが、現在では考古学的発掘を経て場所も特定されている。


アブデラの位置


古代アブデラ遺跡


愚か者の町とされるが、原子論のデモクリトスはこの町の出身で、ヴィーラントはデモクリトスを主人公としている。

アブデラ人の特性は、

彼らの空想は理性をはるかに追い越してしまい、理性の方では空想に追いつくことが金輪際不可能になってしまったのである。

自分たちが何を言おうとしているのか、あるいは、どのようにそれを言おうとしているのかを、一瞬たりとも考えたことはなかった。そのことから来る自然の結果は、彼らは口を開けば決まって何か愚かなことをいうということであった。

そして彼らが、共同体の案件について、真に長い真剣な協議を重ねるとすると、考えられうる一切の決定のなかで最悪のものをつかむであろういことは、まず確実に予想できたのである。

そのなかで唯一まともなデモクリトスが諸国遍歴の後にアブデラに戻ってくると、アブデラ人からは精神的に愚かな人とされてしまう。

愚かさぶりを徹底して書いたので、普遍性を得るに至った。アブデラ人そのものは歴史の闇に消えてしまったが、

アブデラ人たちはそういいうわけで、種をあとに残したのであって、その種はあらゆる国土で発芽し、膨大な数の子孫へと蔓延して行ったのであった。(378ページ)

読んでいてどこかアブデラが『特性のない男』で描写された大戦直前のヴィーンの狂乱状態と風刺に似ているように思えた。

アブデラが終焉したのは、アブデラ人が崇めていた蛙が異常に増え過ぎ、その結果あっさり町を放棄して移住してしまったからだった。皮肉なことに町を放棄して間もなく、鶴の大群がやってきて蛙をすっかり退治してしまったということである。

聖人・托鉢修道士・吟遊詩人

ヨーロッパに盲人の足跡を辿る
永井彰子、海鳥社、2015年



図書館に新着として入っていたのを見かけ、アルザスの守護聖人聖オディールについて触れていたので借りて読むことにした。

聖オディールの生涯については、前に調べていたので新たな情報というのはなかったが、12世紀以降歴史の波のなかで浮き沈みを繰返し、最終的にアルザスの守護聖人となったのは1946年と、かなり最近のことであったのはこの本で初めて知った。

ゲーテとオディールについて最後に触れ、ゲーテはストラスブールの大学生だったときにオディールの修道院へ巡礼に訪れ、それが後に『親和力』のオッティーリエになったという。

ゲーテはオッティーリエの「ほぼ全行動を肯定し」「恋人の心と眼」で彼女を描いた(45ページ)。

アーレスハイムの聖オディールの洞穴と、同じ場所にありゲーテの知人が関わっていたエングリッシャーガルテンについて触れていないのがたいへん残念だった。

他の各章はブルターニュの聖ハーヴェイ、ルイ9世創立の救済院と盲人、盲目の托鉢修道士、盲目の乞食が犬に引かれて歩む絵、放浪芸人など個々に興味深いテーマ(特にスイス年代記に関連する部分は素晴らしい)であったが、全体を統一するものが希薄なように感じられる。

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