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権力者も餃子も泳ぐ

泳ぐ権力者  カール大帝と形象政治

ブレーデカンプ著、原研二訳、産業図書、2017年

Originale: Der schwimmende Souverän - Karl der Große und die Bildpolitik des Körpers, Horst Bredekamp, Verlag Klaus Wagenbach, 2014.

 

「権力者」と「泳ぐ」を結びつけるのは一見簡単ではなく奇異な感じさえ抱く。「政界を泳ぐ」といった比喩的な意味で使っているのならわかるけれど、読み始めてみると文字通り水のあるところで「泳ぐ」ことだった。権力者、ここではカール大帝、が泳ぐことの意味を問うことから始まる。

 

洋の東西を問わず権力者は体力勝負な面があり、たとえ瀕死の身であっても民衆の前に姿を現すことで権力基盤を維持することができたのは古代や中世ばかりではなく、現代も同じである。中世であれば、映画『エル・シッド』の後半で重傷を負ったエル・シッドが姿を見せることで民衆や兵士の不安(指導者がいなくなり、城壁に迫る敵に滅ぼされるのではないか)が解消され歓呼に変わるシーンや、瀕死の病なのに人民の面前に姿を現さなければならない東ローマ皇帝の例があった。

 

著者の目的は権力者の泳ぎパフォーマンスをから、カロリング朝という政治機構がまだ未発達の時代、カール大帝とアーヘン宮廷の側近が身体というメディアをどのように政治機構強化のために用いたかを明確にしていく。

 

アインハルトの『カール大帝伝』にもあるように、カール大帝は温泉と泳ぎが大好きだった。ブレーデカンプによるとアーヘンが宮廷所在地となったのも、単純に古くからの温泉があり、ローマ人が建設したクアパークがあったからで(そうだ、温泉へ行こう!)、それ以外の何の理由もなかったという。実際、現在の大聖堂のすぐ傍に温泉プールがあったことが記録資料や考古学的データからわかっていて、ここでカール大帝は息子たちや臣下と共に泳いだ。

 

主従が一緒に泳ぐことで分け隔てのない一体感が生まれ政治的緊密化に貢献する。同時にカール大帝の恵まれた体格(1m90cmあったという)と体力を誇示することで、臣下(皇帝になってからは諸国王も含む)とは違うことをアピールして自身をオーソライズした。

 

王(皇帝)の身体と政治の関係といえば、カントロヴィッチの『王の二つの身体』でも明らかにされていたが、政治だけでなく芸術の分野にも影響が及んでいる。

 

続く章ではコインとヘアスタイルが問題になる。カール大帝の出自であるカロリング家は、先行したメロヴィング王朝の宮宰であり、メロヴィング王が弱体化するなかで王権を得るまでに発展したが、メロヴィング王が「一度も切られたことのない」長髪であったのに対し、フランク族のカロリング王は意図的に短髪にした。ここで身体言語としての意味がカール大帝によって変えられていることに気付き、ある意味ロラン・バルトを1000年先取りしているともいえる。

 

スイスとイタリアの国境ミュスタイルにある聖ヨハネ修道院は、カール大帝が寄進して設立されたという伝承があり、実際聖堂をはじめいくつかの建築と聖堂の壁画はカロリング時代のものである(このため世界遺産に登録された)。聖堂の柱にカール大帝像と伝えられるストゥッコ像がある。制作年代は特定されていないが、カール大帝存命中に制作された可能性が有力視されている。カール大帝は典型的なフランク族の服装で(『カール大帝伝』には、式典以外は質素な服装を好んだと記述されている)、ヘアスタイルに着目すると、かなり短髪であることがわかる。

 

 

そうなると、同じ聖堂のカロリング時代の壁画や、後述の『ゴデスカルクの福音書』の「栄光の王」はどうして長髪なのだろうか。もっとも、短髪のキリストをみたことないけれども。

 

 

泳ぎとヘアスタイルについて面白いまとめ方をしている。

 

水の波と髪の波、髪のうねりは制御され、整形されねばならない。両要素は結合して、身体そのものを形象の担い手とその結合についての根源的表現が、さらに同種の生身の形象へと伝わるのである。

 

「泳ぎ」は水の支配であり、さらに動物界の支配に接続させている。自然を支配するというヨーロッパ独特の概念がここで明確になった。アーヘンにはカール大帝の命令で各地より集められたり、寄贈された動物たち(その中には、カリフ、ハールン=アル・ラシードが贈呈したアフリカ象も含まれていた)を飼育する区画が設けられ、さながら動物園のようであった。

 

その動物園の記録を著者は『ゴデスカルクの福音書』挿画に見出している。『ゴデスカルクの福音書』はカール大帝と妃により781年に発注され、783年に完成した。

 

 

781年から783年の間カール大帝の命により制作された著述家ゴデスカルクの福音書には、湯治場の絵が載っており、それにはこうした2羽の孔雀が、温泉を囲む柱に支えられた丸い園亭の装飾を形成している。その他の鳥や右下に描かれる鹿と協力してパラダイス気分を盛り上げていて、ヴァラフリドがアーヘンの野生園を眺めながら、ときに感じたのもまた、これである。

 

この挿画は、美術史家ならふつう「生命の泉」と説明する。生命の泉はヨーロッパでこの『ゴデスカルクの福音書』が初出であるが、東方のもっと古い例に遡り、例えばGarima Gospels(最近の分析では530-660年頃制作)にも見出される。著者は当然美術史家の解釈を知ったうえで、イメージのなかに別の解釈を読み込む。それが行き過ぎかどうかは読む人により判断が分かれるかもしれない。

 

「生命の泉」でもっとも有名なのは、カール大帝の宮廷で制作された『ソワッソンのサン・メダール福音書』の挿画である。本書では言及されていないが、上記の文脈に沿っていくと、特に泉の背景にある建造物がアーヘンのテルメ(温泉)の建築構造が反映されているかもしれない(ただし著者はこの写本に触れていない)。「生命の泉」は「若さの泉」、「青春の泉」とも呼ばれ、ヨーロッパでは人気の画題となり、何度か流行している。

 

 

「生命の泉」は洗礼と関わり、アーヘンの地で「泳ぎ」の形象と隣接することになる。

 

『ゴデスカルクの福音書』写本についてはさらに考察を進める。

カール大帝のカロリング王朝では、国家記号学が「流体」であり、その体系はカール大帝の泳ぐ身体から始まっている。水は記号学を構成し統治形態の構造要素となる。ここで写本に目を向けると、先の「生命の泉」に対向するページから、紫に染められた背景に金または(今日ではすっかり退色してしまったが)銀文字で聖書のテキストが記述される。

 

 

このイメージを著者は、

 

湯治場の図に続くゴデスカルクの福音書の挿画こそ、この流れの秀逸な展開である。……文字は金色と、今では黒く酸化した銀色で施され、赤金の地は、羊皮紙を泳ぐように浮かび上がる。

ゴデスカルクの福音書の完成は、本文と図版の校閲を担ったアーヘン宮廷派の劈頭を飾るのだが、この福音書は光と水に両極を定め、その両極の間で、いわばずぶ濡れの羊皮紙、色、メタリックな文字、光へと<海進>(トランスグレッシオン)する文字、これらの<流出>(エマナツィオン)が起こる。液体性格を具えた彩色写本の描写手段は、異なるメディアが互いに浸潤し合う卓越した例となるのだ。

 

これまでの伝統的な歴史学またはアナール派とも違い、ヴァールブルク派の手法を継承したものという。個人的な嗜好ともとられる泳ぎに着目して展開していくプロセスがとてもユニークで説得力がある。こじつけあるいは行き過ぎの面もあるかもしれないが、欠点としては小さい。

 


                   ■ ■           ■■       ■

ヨハネ讃歌とランゴバルト史。

どちらも日本語で読めるありがたい時代。

 

 


■ ■ ■ ■  ■

東方教会の精髄 人間の神化論攷 聖なるヘシュカストたちのための弁護

グレゴリオス・パラマス/大森正樹訳、知泉書館、2018年

 

 

東方正教会、しかもヘシュカスム論争に関連する神学書が出版されるのはとても珍しい。

 

神は存在しているものを超えるのみならず、神をも超えるものであり……

 

エックハルトも同じようなことを言っていた。

パラマスは1294年生まれ、エックハルトは1260年頃の生まれであるから、偶然にもほとんど同じ時代を生きていた。

 


  ■    ■■■■

『魔弾の射手』でドイツ「国民オペラ」らしいと思ったのは、登場人物のなかに森林監督官という役職の配役があることだった。ヴェネツィア共和国に「海の監督官」があったのと同様で、森が生活の多くを占めている。

 

 

著者はアイフェルのヒュンメルという所で森林管理官として管理している。場所を調べてみると、ミュンスターアイフェルの南10kmにある村だった。

 

ミュンスターアイフェルの森

 

ヨーロッパの森はブナのイメージ、それとは別に針葉樹が出すテルペンについて興味深い。

 

針葉樹はテルペンを発散する。テウペンとは本来、病気や寄生虫から身を守るためにつくられる物質なのだが、その分子が待機に混ざると湿気と結びついて凝縮する。その結果、普通の陸地の雲よりも2倍ほど密な雲ができる。この雲には二つの利点があることが知られている。まず、雨が降りやすくなること。そして日光の5パーセントを反射すること。おかげで、その地域の気温が下がる。涼しくて湿っぽい−–針葉樹が好む環境のできあがりだ。この仕組みが地球温暖化のブレーキとなっている、という説もある。

ポンプとしての森

 

森の葉っぱの数くらい知らないことは多い。

 

アイフェルの森

 

樹木は葉っぱを虫にかじられると周囲に警報を伝える、という一文があった。ちょうど植物で同様の機構を可視化したという記事が出ていた(National Geographic 9月14日版)。


■  ■ ■ ■■

ヘルムート・シュミットの『タイポグラフィ・トゥディ』、トゥディといっても刊行は40年近く前であるけれども、タイポグラフィの分野ではとても知られている。なにより古びていない。

 

その中に先日の Fünf Quadraten auf Abenteuer も出ていて、古典的な作品とされている。本文の紹介には、

 

旅をする5ツの正方形。

5ツのシセロのサイズの黒い正方形が32枚の白紙上を旅行する。

リズミカルな明暗度とバランスの探索から映像的楽しさが生まれている。

 

同書にはジョン・ケージの作品が2ページ掲載されている。マラルメが「偶然を排して」いるのに、ケージは「全くの偶然」で、正反対なのにどこか似ているのがとてもおもしろい。これはきっと偶然ではない気がする。

 

下ページには数十個のドットがあるけ画像が小さくてわからない


ザンクト・ガレンの詩篇

「それにしても」カドフェルは半ばひとり言のようにいった。「その本はいまどこにあるのだろう」

 

推理小説は滅多に読まないけれど、『薔薇の名前』とカドフェルシリーズは例外、人気のある同シリーズのなかで16作目『異端の徒弟』は1140年代の大陸ヨーロッパの異端の動きと彩飾写本をイメージできると楽しみが倍増する。とはいっても16作目の関心は幻の彩飾写本のほうに向かう(ネタバレだけど)。

 

文字だけの小説で図版がないから小説の描写から推測すると、問題の写本は、

写本名 『テオファヌ詩篇』

制作年 972年

制作地 ザンクト・ガレン修道院

制作者 修道士ダイアーメイド、スクリプトと写本画。献辞に由来と名前がある

 

所有者 オットー大帝→テオファヌ→オットー3世?→(不明)→エデッサ近郊の修道院→

    リズウッドのウィリアム→フォーチュナータ→コヴェントリー大聖堂→?

装丁  板に紫に染めたヴェラム貼り、円光を伴いハープを弾くダヴィデ像の彩飾刺繍

ページ 冒頭と末尾の数ページは紫に染められたヴェラムに金文字

    他のページは純白に近い上質な羊皮紙に青みがかったインク

    挿画と彩飾された文字多数

 

『テオファヌ詩篇』はザンクト・ガレン修道院で制作された。同修道院の彩飾写本はよく知られていて、カロリング時代に二つの有名な詩篇『黄金詩篇』と『フォルヒャルト詩篇』が制作されている。

 

口絵には、帝王らしく玉座に坐り、この世と天国との楽人たちに取り巻かれて、みずからも楽器を奏でながら歌っている詩篇作者が描かれている。

 

黄金詩篇

 

フォルヒャルト詩篇

 

アンセルム修道士の指摘どおり、972年にオットー2世とギリシアから来た花嫁テオファヌは結婚式を挙げるためにローマへ赴く途中、ザンクト・ガレン修道院に立ち寄っている。このときオットー2世はギリシア語の勉強のため修道院図書館(現在以上に有名な大図書館だった)から本を借り出し、そのまま返さなかったので現在も未返却記録を更新している(本の返却)。

 

ダイアーメイド Diarmaid という名前はアイルランド出身で、同名の聖人もいるが972年にザンクト・ガレンに在籍していたかどうかは確認できなかった。仮にいたとしても、この頃ザンクト・ガレンの写本制作活動は修道院自体の衰退もあって低調だった。同修道院出自のオットー朝時代の彩飾写本は20編を数えるのみで、前時代に及ばないものの復活するのは11世紀になってからである。このような状況で「値の知れぬほど貴重な」写本が制作できたか疑わしい。そうかといって、オットー朝写本の最高峰を制作したライヒェナウの修道院が活動を始めるのはまだ10年ほど早い。

 

紫は帝王の色だから、紫色のヴェラム皮に金文字となれば、帝王のためにつくられた本にちがいない……古代ローマでは、カエサルも同じ色を使っており……アーヘンやビザンティウムでは、王たちがカエサルを真似たといわれている。

 

帝王の紫と金

 

テオファヌはオットー2世の妃で結婚時13歳、後に夫が亡くなりオットー3世が成人するまでの間、摂政として政務を執り行った。皇帝不在のなか何かと反乱を起こそうと企むドイツやイタリアの貴族たち、カペー朝が創立されようとしているフランスの間で絶妙なバランスをとり、極力軍事行動を避けた。一時期は女帝として勅書に署名をしたが、31歳で亡くなった。

テオファヌ、ザンクト・パンタレオン教会のモザイク

 

(不明)の期間は150年近くに及ぶ。初めてわかるのがエデッサ近郊の修道院であるから、テオファヌの没後、オットー3世が相続したか、テオファヌの遺言でギリシア系修道院(例えばケルンのザンクト・パンタレオン修道院の守護聖人はギリシア人で生前篤く支援していた。そのため聖堂には現在テオファヌの棺がある)に寄贈され、そこからギリシアに渡ったのかもしれない。

 

ザンクト・パンタレオン教会、ケルン

 

詩篇は1143年6月にコヴェントリー司教に贈呈された後、再び行方がわからなくなった。これだけの価値のある写本であるから行き先は教皇庁か、トスカナの大図書館がふさわしい。後者だったら1327年末に図書館から出火した火災で焼失してしまった可能性が高い。

 


中世修道院の小さな庭から

中世修道院の小さな庭から

大塚満津子・大塚隆一郎/監訳

新潮社、2018年

 

 

思いがけない本が出た。というのも、カロリング時代の著作が日本で出版されるのはとてもまれだからである。

思いつくままに挙げてみても、

 アインハルト、カロルス大帝伝

 ニタルト、カロリング帝国の統一と分割

 パウルス・ディアコヌス、ランゴバルドの歴史

 ヴィドゥキント、ザクセン人の事績

 カロリングルネサンスに収録された様々な著作

 

といった歴史か神学関係の著作がほとんどだった。

出版不況のなか、敢えてこのような本を出した訳者、出版社の努力は素晴らしい。

 

出版されたのはヴァラフリート・ストラボの詩、Hortulusの名前で知られていた。種村季弘が『ビンゲンのヒルデガルトの世界』(1994年)のなかで触れ、その前に澁澤龍彦が紹介していた。Stundenbirneにも2009年の記事に「残念ながらHortulusはまだ日本語に訳されていないが」と書いていた。

 

内容は、Horulusの翻訳、修道院について、ハーブについてである。翻訳はラテン語原典ではなく、Payneの英訳版(1966年)からの重訳である。他にJames Mitchellの英訳版が2009年に出版され、入手も容易であるが本書で言及はない。ドイツ語版は複数出版されている。手許にあるのは、ライヒェナウで購入したドイツ語版(最初の印刷版の羅独対訳)とMitchell版の2種類である。なお、ラテン語原典はネットを探すと簡単に見つかる。

 

ハーブについての解説は訳者の専門なせいか力が入っている。特にプリニウス、ディオスコリデス、ボールドの植物誌に記載されている効能効果の比較は他になく充実している。

 

作者はヴァラフリート・ストラボ(ストラボは渾名で姓ではない。脱線するとレオナルド・ダ・ヴィンチを「ダビンチ」と呼ぶのと同様間違っている)、カロリング・ルネサンスと言われた時代にライヒェナウの聖マリア・聖マルクス修道院の院長となった人で、先に挙げたカルロス大帝伝にもあとがきをつけている。

 

 

再現されたヴァラフリート・ストラボの薬草園

 

修道院、特にライヒェナウ修道院についての解説は残念ながら大いに問題がある。気になるところを挙げていくと、

 

ヴァラフリド・ストラボはこの修道院が文化的に頂点であった時代に生きて、そして彼の死によってライヘナウ島のよき時代は終わった。(12)

 

カロリング時代のライヒェナウを「金の時代」、オットー朝時代を「銀の時代」と喩えられている。教育や文芸はカロリング時代が最盛期であったが、オットー朝時代にはヴィティゴーヴォ、ベルノやヘルマヌスがいる。彩飾写本はヴァラフリートよりもベルノ時代のほうが圧倒的にピークであったし、ヘルマヌスの著作はライヒェナウ全史上でも最高のものであった。

 

ザクセンのコルビー(53)

 

おそらく似た名前のコルビー修道院 Abbaye Saint-Pierre de Corbie と、コルヴァイ修道院 Abtei Corvey を混同している。もっともコルヴァイ修道院はコルビー修道院によって設置されたのが起源だった。

 

このライヘナウ修道院の中で、輩出された学者と教師の中で、最も傑出していたのは、ハイト(Heito)、ヴェッティ(Wetti)、グリマルト(Grimald)、タット(Tatto)、ヘルマン(Hermann)そして、ストラボであった。(54)

 

ヘルマンは注がついていて、「年代記作者で、最古のドイツ年代記を執筆した」とある。

記述からヘルマヌス・コントラクトゥスのこととわかるが、カロリング時代ではない。また、ヘルマヌス以前にドイツ年代記はいくつも書かれている。有名なのはコルヴァイのヴィドゥキントの年代記で日本語訳もある。

 Annales Laurissenses minores, 9th, Lorsch

 Saxonicae Annales Quedlinburgenses, 1008, Klster Quedlinburg

 Chronicon Suevicum universale, 1045, Reichenau, Hermannus Contractus

 Chronicon Thietmari, 1012, Merseburg, Thietmar

 Gesta Chuonradi II imperatoris, 1033?, Wipo

 Res gestae saxonicae sive annalium libri tres, ca. 967, Kloster Corvey, Widukindus Corbeius

 Chronicon, 906, Regino Prumiensis, Kloster Prüm

 

ザンクト・ガレンの庭

最も有名な修道院の庭は、スイスのザンクト・ガレンの修道院である。その名の由来は、7世紀に30年間、そこに住んだ、瞑想と宗教生活をしたアイルランドの修道士、ガルス(Gallus)からである。(58)

 

基本的なところで誤解があるのではないかと思う。「ザンクト・ガレンのプラン」(ここに小さいけど全体をのせてある)は、ライヒェナウ修道院長ハイトーI世の時代820年頃に筆写されザンクト・ガレン修道院長ゴツベルトに贈られたことがプランの献辞に記載されている。ライヒェナウもザンクト・ガレンもプラン通りに建てられたことはなかった。

 

ガルスの園芸技術はよく知られている。理想的なベネディクト修道院の様式を展開した。その様式は四つの庭から構成され、それぞれの庭に沿って植物が育てられていた。(58-59)

 

(ザンクト・ガレンのプランの図版)

 

ガルスが園芸技術を持っていたかは不明、ガルスはアイルランド出身でベネディクトゥスの戒律に従っていなかった。ザンクト・ガレンがベネディクトゥスの戒律を採用したのはガルスの没後である。注に「ガリアに宣教して、ザンクト・ガレン修道院を建てた」とあるが、ガルス自身は修道院を設立せず、次代のオトマールが設立した。

 

ザンクト・ガレンの修道士たちは、9世紀の間、ガルスの理念を広げた。四つの庭園は、それら独自の目的により名前を付けられていた。墓地、回廊、施療院、そして厨房。それらの庭園は、二つの主たる目的を反映していた。神および人間に役立つため。

厨房と施療院の庭園は、祈りと瞑想の場であり、穏やかであることを意味した。より華麗な庭のいくつかは、中央に装飾的な噴水が設置されていた。

 

「祈りと瞑想の場」の庭は回廊のはずで、ザンクト・ガレン修道院もライヒェナウ修道院も共に聖堂の北側に直結していた。「プラン」では南側になっている。噴水があったかは確認されていない。噴水自体はローマ時代にあり、エックハルトの説教にも登場している。ザンクト・ガレンの回廊に噴水があれば、発掘で配管が確認できるように思われるがそれはなかった。シトー会では洗手堂が回廊のどこかに設置されていた。

 

墓地は、庭として囲まれた空間(カンポ・サント)を形成することがあった。「プラン」からは墓標の周囲に果樹が植えられていたことがわかる。

 

施療院は医療を施す役割上、独自に薬草園を持った。「カドフェル」シリーズをみるとわかりやすい。

 

厨房は修道院に所属する人員の食事を賄うから、大量の麦や野菜が必要で「庭」というには小さすぎる(神からみたら庭にしかみえないかもしれないが)。

 

本書で最も問題なのが、「プラン」という素晴らしい資料がありながら、記載されている薬草園と詩の関係について解説が一切ないことである。「プラン」の左上の四角がこの薬草園にあたり、植えられている薬草名まで記されている。しかもいくつかはヴァラフリートの詩と一致する。実際「プラン」の配置をもとに復元されたハーブ園がライヒェナウとロルシュとオランダにあり、本書にもライヒェナウの薬草園の写真(53)が掲載されている。

 

学習は、七つの学芸に系統立てられた ー文法、修辞学、論理学、算術、音楽、幾何学、そして天文学ー である。(60)

 

いわゆるリベラル・アーツ、体系化はカロリング朝以前にされていた。

 


クマ700年目のリベンジ

Brother Hugo and the bear

Text: Katy Beebe, Illustration: S. D. Schindler

Eerdmans Books, 2014.

ユーゴ修道士と本を愛しすぎたクマ

千葉茂樹訳、光村教育図書、2015年

 

 

 

天気の良い日に偶然見つけた。

国語の教科書のイメージしかなかった光村教育図書から刊行されていた絵本。

 

12世紀、クリュニー会全盛期の修道院長ペトルス・ウェネラビリスが映画で話題になったグランド・シャルトルーズのグイゴ宛書簡に記された「アウグスティヌスとヒエロニムスの書簡集がクマに食べられてしまった」という実話をもとになしている。

 

絵本では触れてないけれども、クマが「蜜のように甘い」といわれたクレルヴォーのベルナルドゥスの説教集ではなく、アウグスティヌスの書簡集という一見シブそうな書物を食べたのは、700年前まで遡る理由があった。ヒッポ司教アウグスティヌスは、動物全般に好意的でなかったが、特にクマとライオンは敵視し、区別さえしようとしなかったばかりか、悪魔と同一視さえした。クマはそれまで、「百獣の王」として特にゲルマン社会から崇められていたのに、である(ミシェル・パストゥロー『熊の歴史』による)。パストゥローは、アウグスティヌスが嫌っていたのは、個人的な体験があったのではないかと推測している。

 

アウグスティヌスの影響は中世にわたって絶大で、おかげでクマは組織的に排除される対象となってしまった。こうした背景からクマは書簡集を食べることで復讐した。ライオンはヒエロニムスと縁の深い動物で、アウグスティヌスの敵視にもかかわらず次第に地位が上がったので(なんといっても聖マルコの象徴にもなった)復讐の必要もなくなったのかもしれない。

 

 

 

 

ベステアリウム、ボードリアン写本

 

アウグスティヌス書簡集を借り出してクマに食べられてしまったのが、絵本の主人公ユーゴだった。そのことを知らされた修道院長(ペトルス?)は、食材ならぬ贖罪(ちょうど四旬節の1日目だった)を言い渡した。

 

いますぐ、グランド・シャルトルーズ修道院へおもむいて、聖アウグスティヌスの本をかりだし、全てを書き写すのです。一言一句もらさずに。そして、写本をつくり、わが修道院の図書館におさめること。

 

12世紀の書物の価値は立派な家屋1件に匹敵し、彩飾写本であれば礼拝堂くらいに匹敵した。修道院長は簡単に書き写せと命じているが、書写作業は「3本の指でだけでなく全身で苦しんでいる」(薔薇の名前)苦行だった。

 

思い出すのはタルコフスキーの『アンドレイ・ルブーリョフ』の一場面。修道院長に悪態をついて修道院から放浪に出た修道士が、生活できずに再び修道院に戻ってきた。修道院長は迎え入れたが贖罪のため「聖書を10回書き写せ」と命じた。その言葉に修道士は絶望し、他の修道士も厳しい罰に恐れたシーンだった。それほど書写作業は辛い作業だった。

 

ユーゴ修道士はグラン・シャルトルーズに本を借りに行く。四旬節は3〜4月でクマなら冬眠しているように思うが、ヨーロッパには冬眠しない種類もいるそうである。

 

先ほどの『熊の歴史』には、グランド・シャルトルーズ修道院の山奥にたくさんクマが住んでいて、大量の骨が1988に発見されたことが記されていた。『大いなる沈黙』で映し出された風景も、いかにもクマが住んでいそうな山だった。

 

 

グランド・シャルトルーズというより、クリュニー第3聖堂

 

クマに後をつけられながらも無事に帰院したものの、ユーゴは写本制作の経験がなかったらしい。困っていると親切な兄弟(同僚修道士)が面倒をみてくれた。絵本では修道士がそれぞれの名前にふさわしい援助をする。例えば、

 

カドモン修道士は羊皮をくれた。

ベーダの『英国民教会史』に、「カドモンは反芻している清潔な動物のように、聴いて覚えたことをすべて非常に魅力ある歌に変えた」という記述がある。

 

バーソロミュー修道士はその皮を水にひたしてから木枠にはり、表面をなめらかにした。

名前から皮はぴったり。

 

イルドベール修道士は、罫線をひいてくれた。

少し前の時代にル・マン司教で著述家のイルドベールがいた。著述家だから罫線は馴染みが深い。

 

マルタン修道士は、ペンとしてつかうガチョウの羽をくれた。

トゥールの聖マルタンはガチョウと縁の深い聖人、サン・マルタン祭にはガチョウを食べる。

 

ジェローム修道士は、書き損じをけずりとるためのぺんとナイフと、机をかしてくれた。

ラテン名ヒエロニムス、ギリシア語からラテン語に聖書を訳した。書斎で書写する姿が多く描かれた。

 

めでたく写本は完成、筆写元の本は持ち主のところに返しに行くことになった。

このあと結末がどうなるか、それは読んでみてのお楽しみであるが、ユーゴ修道士はクリュニー会修道士ではなくザンクト・ガレン修道院の修道士だったら、クマは寄りつかなかったばかりか、進んで助けてくれたかもしれない(というより、そもそも食べることをしなかった)。クマは後に修道院が建つ地に定住した聖ガルスに、食べ物を届けていたのである。

 

 

食べ物を届けるクマ、トゥオティロ

 

 

イラストレーターも12世紀風に装飾している

 

 


ノヴェレ Die Novelle

ゲーテの短編『ノヴェレ』について紹介することになり、久しぶりに読み返した。今回読んだのはポプラ社の百年文庫に収録された(もともとは人文書院版全集に収録)内藤濯訳である。この文庫にはムシルとアナトール・フランスの短編も入っている。

 

百年文庫「城」

ポプラ社、2010年

 

 

 

『ノヴェレ』はもともと『ヘルマンとドロテーア』の対作品となる叙事詩として『狩』というタイトルで構想された(1797年3月23日)。ホメーロス風ヘクサーメターの叙事詩が『狩』に適した形式であるか疑問が生じ、長期中断を経て1826年10月に再開、1827年2月に散文として完成、1828年に出版された。

 

1827年1月18日

私はいま散文でみごとに書きあげた。

対話

 

1827年1月18日

この短編の筋の進行を比喩であらわすとすると根から一本の緑の植物が芽生えてゆくところを想像してみるとよい、その植物はしばらくの間しっかりした茎からつやつやした緑の葉を四方八方へのばして、最後に花をつける。花は思いがけなく意外なものだったかもしれないが、まさに咲くべくして咲いたのだ。そればかりではない。そもそも緑の葉は花のためにあったので、花が咲かなければ骨折り損というものだ。

 

押えつけたり、克服したりすることのできないものは、力によって無理にねじ伏せるよりは、愛情や敬虔な感情の助けをかりて制御した方がよいということを示すのが、この小説の課題だったのだ。そうして、子供と獅子の姿にあらわされるこの美しい結末が、私を刺激してこの作品の完成に向わせたのだ。

対話

 

1827年1月29日

この短編小説にどんな題をつけたらよいか、ということであった。あれこれ題名をあげてみたがどうもしっくりこない。「どうかね」とゲーテはいった、「われわれは、これに『ノヴェレ』という題をつけようではないか。そもそもノヴェレとは、にわかに起こった前代未聞の出来事にほかならないからなのだ。これが本来の概念だ。

対話

 

1829年1月10日

(『ノヴェレ』は)私の存在のもっとも深いところから生れてきた。

書簡

 

トリノで狂気に陥る2ヶ月前、ニーチェは子供の頃に読んだ『ノヴェレ』の印象を書き残していた。

 

それは『獅子の短編』によるもので、奇妙なことに私がゲーテという存在を知った最初だった。それは一挙に「ゲーテ」という私の観念、私の嗜好をきめてしまった。澄みきった秋の味わい、物もなが熟れていき、 ―ひたすら心待ちに待っている気配、至上の霊的なものさえ漂うような十月の日ざし。金色で甘美で、やわらかな或るもの、決して(ゲーテがよく喩えられるような)大理石ではない、― そうしたものを私はゲーテ的と呼ぶのだ。

1888年11月

 

 

舞台

神聖ローマ帝国からナポレオンによる占領を経て、ヴィーン体制(1815)により成立したドイツの領邦国家の一つで、侯爵が統治する候国 Fürstentum。ここでは先代からドイツ的で理想的な国家運営がされている。

 

時期

秋はかなり深いものの、収穫が終わり狩がまだできる時期。おそらく10月頃で、ドイツ人はこの時期を「ゴールデンオクトーバー」と呼び、春に次いでこの季節の到来を喜ぶ。

 

10月

 

「にわかに起こった前代未聞の出来事」

現代の感覚からすると想像が困難な「機織りの音が騒音」と言われた時代には、町に起こった突然の火事、目の前に突然現われる猛獣は十分に「にわかに起こった前代未聞の出来事」となりうる。

 

しかし、本当の「前代未聞の出来事」は外的な事件でなく人間の内面に起こったことで、だからこそ「私の存在のもっとも深いところ」から生まれた。そのヒントになる記述が2カ所ある。

 

真昼どきになると、牧羊神が眠るので、その眠りをさまさないように、全自然が息をこらすのだと、古代の人たちは言ったが、その真昼どきの常として、あたり一帯はのどかに静まりかえっていた。(122)

 

「大いなる正午」、真昼どきは午前でも午後でもない特異的な瞬間である(これとよく似た瞬間が夏至の日になる一瞬)。世界のどこにも属さないこのような時間だから、外的な事件をきっかけとして人間のなかに存在不安ともいえる深淵が現われる。

 

侯爵は、さきほどからわが身を脅かしていた禍いの全貌が、今やっと呑みこめたような思いで、よりそうている奥方の方を見やった。(149)

 

この一節は事件を終息させるためにどういう方法をとるのか、という侯爵の問いに見世物興行主が子供に歌と詩で解決しますと実演し、皆が感動した後に出てくる。聡明な侯爵であれば、事件の報告がされた時点で全貌を把握できるのに、今やっと理解できたのはそれが外面的な危機ではなく内面に起こった存在不安の危機だったからである。

 

ライオンを宥めるために子供が歌う歌は、ダニエルの物語を下敷にしている。4連あり、第1連の単語を入れ替えながら意味を大きく変えず、新たにしていくのがまるで変奏曲を聴いているかのようである。翻訳も難しいに違いない。

 

第1連はダニエルの奇蹟を歌う。預言者はつつましい心で歌い、洞穴の獰猛なライオンを宥める。天使は預言者をはげます。ライオンはその歌に心を打たれ、おとなしくなる。

 

第2連は進行中の状況、子供がライオンを前にダニエルのようにつつましい心で歌う。ダニエルのときと違うのは、天使は子供の周りにいるが、何もしない「もう務めはおわったのです」。

 

第3連はライオンを宥めることができた愛の力を讃える。

 

第4連はつつましい心と歌の調べが猛獣をおとなしく従わせたと歌う。

 

預言者ダニエルは神と交流できた時代であったが、フランス革命後を生きる子供(現代人)には神からの関与はない。現代人はつつましい心と歌(詩と音楽)の力だけで難局を乗り切らなければならないし、そうすることができる、というのがゲーテの考えであった。ここで「前代未聞の出来事」の本質が何であったのか、侯爵がこの歌を聴いたあと、はじめて事件の全貌がのみこめたのかがわかってくる。

 

『ノヴェレ』の数年後、ついに完成された『ファウスト』の「神秘の合唱」には「書き得ぬことが、ここにて成就された」と歌われる。『ファウスト』に先だって『ノヴェレ』のなかで成就された。

 

ドイツ語の副読本として、朝日出版社から『ノヴェレ』が出ていた。

Johann Wolfgang von Goethe Novelle、木村直司編、Asahi Verlag、1984.

 

ドイツ語原書はAmazonの電子書籍が無料、Gutenberg projectにも収録されている。

 

YouTubeには朗読が複数アップロードされている。朗読は1時間弱、日本語訳はだいたい30分以内で読むことができる。

 


ブレンダン関連本

designing the Secret of Kells
Tomm Moore & Ross Stewart
Cartoon Saloon, Ireland, 2014.

映画公開(2009年)後の2014年に出版された、アニメの原画/設定資料をもとにしたデザイン本。これまでもストーリーブックのようなものが出版されていたが、この本については最近まで出版されていたことを知らずにいた。Amazon(JP)で新刊本はなく(当時、今は出ているが高い)古書で出ていたものも価格はかなり高く、洋書店を通じて入手することにした。アイルランドに在庫があることがわかり直接取り寄せ、途中夏休みが入ったので1.5ヶ月ほどかかった。価格はAmazonよりかなり安かった。


表紙


太古のヨーロッパの森に建てられた修道院はきっとこんな感じ

アニメのプロジェクトが開始したのは1999年、日本の商業アニメと違ってたっぷり10年の時間をかけて制作された。


キャラクターは『ケルズの書』をもとにデザインされた

ジブリやディズニーなど大作アニメと同じく、いったん設定されていたものが削除や変更されてしまって目にすることがなくなった部分も多い。膨大な量のデザインから制作されたことがわかる。最初の頃はかなりヨーロッパのコミック調だったようである。

初期(1999年)のイメージ

特にこのアニメでは『ケルズの書』のXρページ(最後に登場)を再び描き、しかも動かさなければならないからその部分だけでもかなりの労力がかかっている。最終的にアニメ作品が素晴らしいのは、観る者にとってそういった裏の苦労が感じられないところにある。

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