来年のカレンダー


2016年のカレンダーを早々に確保、クライドルフの『アルプスの花物語』から。


来年が楽しみ



到着


注文していたクライドルフ生誕150年の記念切手がついに届いた。デザインは先日の情報の通り、Grashupfer と Lenzgesind からとられている。


蝶がデザインされた記念消印つき


コレクションシート


切手帳


特別な記念なので記念なので額装して飾ることにした。


スミレも満開




Schlafenden Bäume



日の出直後、まだ眠っている木


古い俗曲から


未出版に終わった『古い調べ』(1851年、展示では『古い俗曲』)はスイスの作家ゴットフリート・ケラーの詩で収録された一つ、『明るい月がなんと冷たく遠くに輝いていることか』 Wie glänzt der helle Mond so kalt und fern は死期の近い女性が若かった頃を懐かしみながら、やがて「車輪も轅もない車」(棺のこと)に乗って天国に入ることを想像する、という内容である。


再び横浜でクライドルフ展を見、そのときに棺をひく天使に気がついた。この作品以外にもクライドルフの作品には棺がよく登場する。


轅(ながえ)Deichsel


Wie glänzt der helle Mond so kalt und fern,

Doch ferner schimmert meiner Schönheit Stern!

Wohl rauschet weit von mir des Meeres Strand,

Doch weiterhin liegt meiner Jugend Land!

Ohn Rad und Deichsel gibt's ein Wägelein,

Drin fahr ich bald zum Paradies hinein.

Dort sitzt die Mutter Gottes auf dem Thron,

Auf ihren Knien schläft ihr selger Sohn.

Dort sitzt Gott Vater, der den Heilgen Geist

Aus seiner Hand mit Himmelskörnern speist.

In einem Silberschleier sitz ich dann

Und schaue meine weißen Finger an.

Sankt Petrus aber gönnt sich keine Ruh,

Hockt vor der Tür und flickt die alten Schuh.


この詩のためにクライドルフが描いた水彩画は2点あっていずれもだいたい詩の内容通り、銀のシュライアーを被って座っているのが詩の主人公(後に『女性について』に再録したときにクレスツェンツという名前がつけられた)である。右手に加えられた天使(棺を引いている)と魂(翼をつけた首)は詩になく、クライドルフが追加した。ここでは中世の写本や壁画によくみられる異時同図法が使われている。


シュライアーは通常婚礼のヴェールを意味するので、「私」はキリストの花嫁ということになるが、キリストには背をむけて自分の指を見つめている。



死が近いことを悟りながらもまだ(ゲーテ的な)諦念に至っていない私を描いたのかもしれない。



二つの絵は細部に違いがある。目立たないけれども最も大きな違いは「私」の顔がヴェールで半分隠れていることである。


この詩にヴォルフが作曲している。


シュヴァルツコップ/フルトヴェングラー



沈思の庭から


クライドルフの詩画集としては最後に出版されたもの。


Aus Versunknen Gärten, 1932.


クライドルフ展でも展示されていなかったこの詩画集のなかで、アドルフ・フライの『百合』という詩につけられた作品が印象に残っている。修道院の庭に咲く百合はそのまま聖母の象徴でもある。


Lilie


マリア・ラーハの修道院にも百合にまつわる伝説があるのを思いだした。

この修道院では、どういうわけか間もなく亡くなる修道士の椅子に百合の花が置かれるという。修道院には聖堂内陣にそれぞれの修道士に椅子が割当られている。


ある朝、とても若く元気な修道士が一足はやく内陣に入ると、自分の椅子に百合が置かれているのを見た。とても驚いた修道士は何かの間違いではないかと、いちばん年のとった修道士の椅子に百合を置いた。


朝の日課のため他の修道士が入ってくると、その花をみた。老齢の修道士は天命とばかりにそれを受け容れた。


若い修道士は悔悟の念に苛まれた。ある日、ついにそのことを皆の前で告白すると間もなく息を引き取った。


修道院内陣(左右に修道士の席がある)、マリア・ラーハ


Aus versunknen Gärten は『沈黙の庭』と訳されているけれども、Versunknen は沈み込むというニュアンスがあり、けっして沈黙ではない。沈思といった意味のほうが近い。


クレーの作品に Versunknen Landschaft という作品がある。この作品でも「沈黙」よりは「沈思」のほうになっている。


Paul Klee, Versunknen Landschaft, 1918.


クライドルフ生誕記念切手続報


クライドルフ生誕150年記念切手はこの2点。


Bei den Stiefmütterchen, Lenzgesind, 1926.


Herbstzug, Grashupfer, 1931.


切手帳やドキュマンなども揃って発行される。初日カバーは日本でも公開されたクライドルフの自画像が印刷されている。


生誕150年


久しぶりにクライドルフの話題。


スイス連邦郵政省は今年の生誕150年を記念して切手が発行する計画がある。

2種類あり、Pensées(パンジー)とCortège d’automne(秋の行進)のデザインらしい。


フランス語で『パンセ』と「パンジー」が同じ綴りなのに初めて気がついた。




「高い山の夕暮れ」


パルテンキルヒェン近くの山を描いたクライドルフの作品、最高峰ツークシュピッツェに連なる山の一つ、従ってツークシュピッツェ山頂からの風景ではない。たぶん麓のパルテンキルヒェンから登って夕方過ぎても戻れるくらいの山である。


Abend auf Hohem Berg, ca. 1892.


この作品が気になったのは、やはりこのあたりの山を一日かけて登り下山した体験から生れた作品がもう一つあるからだった。


ガルミッシュに住んでいたリヒャルト・シュトラウス(クライドルフと1歳違い)が山登りしたのは14歳のとき(1878年)、最初のスケッチはニーチェが亡くなった1900年に書かれ、ずっと後の1914年になって、かつての山登りした一日を『アルプス交響曲』 Eine Alpensinfonie として作曲した。


各パートに標題があり、日の出から山への出発、森や滝、お花畑を経て頂上に到着する。霧が出てきて急いで下山するが嵐に遭い何とか帰宅する。登ったのがツークシュピッツェ(2962m)でないと考えたのは、まだ登山鉄道やロープウェイもない時代にとても一日で登って下る行程ではないからである。


音楽のスケールや「アルプス」のイメージからすると3000m級の山への本格的な登山を想像してしまうが、シュトラウスが登ったのは標題の通り森や花畑が途中にある(アルプスとしては)それほど高くない山である。


このYou Tube動画のような山を想像してはいけない


クライドルフに戻ると、『交響曲』の派手さとは対照的な、太古から繰り返したであろう、何ら事件もなく静かに暮れていく山。シュティフターのように小さなもの、変わらぬもののなかに偉大なものを見出している。


多色石版画


黒一色で誰もイメージしたことがなかった石版画を制作したルドンも多色石版画を(知られる限り)2点だけ制作した。『シュラミの女』と『ベアトリーチェ』で共にヴォラールの依頼による。


『シュラミの女』は6色、6枚の石版を使用している。


シュラミの女, M167, 1897


『ベアトリーチェ』は1896年に描いたパステルをもとにしていると思われる。


Béatrice, W145


近代美術館で開催されたルドン展にはこのパステルと三重県立美術館所蔵の多色石版画が展示された。このときの石版画は2色だけで(赤色版を重ねなかった?)、パステル以上に抽象的になっている。


ベアトリーチェ, M168, 1897, 三重県立美術館


もう一つ別の版があり、こちらは目鼻もはっきりし、赤褐色が加わっている。刷師はこれまでの黒の作品と同じくオーギュスト・クロ。


ベアトリーチェ, M168, 1897, パリ国立図書館


多色石版画自体は前からあった技法であるが、ルドンは長いこと黒のみ(または褐色の単色)で制作した。多色刷りを試みたのは60歳手前、工房では妥協を一切せず厳しく時間をかけて求めたというから(チェリビダッケに似ている)、単色(1枚)だけでもたいへんな苦労だったのに、石版の枚数が増えると累乗で増大することに耐えられなかったのが理由の一つになるかもしれない。


そのように思ったのは偶然にも同じ年(刊行は1898年で1年かけて制作したから)に、クライドルフは一つの作品に15枚もの石版を用いて『花のメルヘン』を制作していたからで、技術と若さがあって可能だったように思える。

Die ersten Blumen, 1898



夢の家


ヘルマン・ヘッセがライヒェナウ島を望むガイエンホーフェン(ボーデン湖南岸)の家を引き払い、ベルン郊外メルヒェンビュール26番地に引っ越したのは1912年のことだった。


ボーデン湖(ウンターゼー)周辺、中央にライヒェナウ島

G:ガイエンホーフェン、T:テーガーヴィレン、M:マイナウ島


引っ越した家は友人の画家アルベルト・ヴェルティが亡くなるまで住んでいた家で、ヘッセは亡き友を偲んで「夢の家」と名付けた。この家をヘッセは次のように描写している。


丸いベルン風の破風のついたベルン様式の田舎の邸宅で、この破風は、この家が非常に不規則な形をしていたためにとりわけ魅力的な効果をもっていた。この家は、この上もなく好ましく、私たちのためにとくに選び出されたように、農家の特徴と邸宅風の特徴とが混合した半ば素朴で半ば上品な素封家の家であった。十七世紀に建てられ、帝政時代の様式の増築部分と内装部分をもつ家で、荘厳な、非常に古い樹齢の木立に囲まれて建ち、一本の巨大なニレの木にすっぽり覆い隠された家だった。

庭仕事の楽しみ(56ページ)、岡田朝雄訳、1996年


古くて貴重なことからベルン市の史跡に指定されているので、今もそのまま建っている。


Wohnsitz des Dichters Hermann Hesse(当時の写真)


26 Melchenbühl 現状(Street View)


ベルン風の破風がみえる(Google map)


ヴェルティがヘッセと知り合ったのは1905年のミュンヘンで1)、1908年にヴェルティはベルンの「夢の家」に移る。その前年に最初の心臓病の発作を起こしたことが関係しているかもしれない。この頃から連邦下院の壁画 Die Landesgemeinde を制作(ヴェルティの没後、やはりクライドルフの友人だったバルマーが完成させた)。1911年にはヴェルティ夫人が亡くなり、翌年ヴェルティも亡くなる。クライドルフとは1895年以来の親友だった。


クライドルフがヘッセと出会ったのは1904年、1916年から絵画を描きはじめ、特にサン・モリッツでクライドルフと画家仲間のガンパーから水彩画を教わってからは、水彩画が中心になり、生涯に3000枚の水彩画を描くほどになった。


1)Ernst Kreidolf und seine Malerfreunde, 2006, p95.による。de.wikipediaのAlbert Welti やヘルマン・ヘッセ財団公式サイトでは1907年としている。


「夢の家」Das Haus der Träume はヴェルティ、ヘッセ、クライドルフがそれぞれ水彩画を描いている。


夢の家、アルベルト・ヴェルティ、1912年以前


「夢の家」とその庭、ヘルマン・ヘッセ, 1916年以降


メルヒェンビュール通り26番地の家、ヘルマン・ヘッセ


メルヒェンビュール通り26番地の家、クライドルフ


ヘッセは1919年までこの家に住んだがルガーノ湖畔に移った。第一次大戦や妻の病状悪化による精神的危機が大きな理由であるが、この家の庭は既に完成していて、庭いじりができないというのも移転の一つの理由だった。この家から想を得て書きかけた小説『夢の家』は未完成に終わった。ちょうど入れ替わるように、戦争のためミュンヘンに帰れなくなったクライドルフはベルンに移り、亡くなるまで定住した。


ベルン市街、Hはヘッセの家、Kはクライドルフの家

H: "Das Haus des Träum" (26 Melchenbühlweg), K: "Zaubergarten" (Aarbühl),


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