メルキュール・ミュジカル

Le Mercure Musical (La Revue Musicale S.I.M.), Volume 1, 15 May 1905.

 

 

創刊号表紙

 

音楽学者ルイ・ラロワが中心となって創刊した音楽雑誌、超有名な『メルキュール・ド・フランス』と直接関係はないようである。少し後になると、セヴラックも投稿したり、作品が批評されたりしている。

 

創刊号の編集は、

Colette Willy 1873-1954

Louis Laloy 1874-1944

Jean Marnold 1859-1935

Romain Rolland 1866-1944

Willy (Henry Gauthier-Villars) 1859-1931

 

すぐわかるロマン・ロランとコレット(バルテュスが拾った猫のミツはコレットの『踊り子ミツ』からとられた)、すぐにはわからないルイ・ラロワ以外は、調べてようやくわかった。

 

ジャン・マーノルド: 音楽学者で批評家、フランスでは初期のニーチェ翻訳・紹介で知られている。メルキュール・ド・フランス1906年3月号に『ペレアス』初演後のセヴラックについて言及がある。

 

ヴィリー: アンリ・ゴーティエ=ヴィラールのペンネームでコレットの夫(雑誌創刊時には別居していた)、音楽評論家でコレットの最初の小説の共作者、サティは「最も忠実な敵」と呼び、同誌創刊の直前に、ウィリーと(杖と傘で)決闘した。決闘の結末はサティが警察に逮捕されることで終わった。

暇なときはほとんど詩人(François  Caradec, Willy - Le père des Claudine)、セヴラックの歌曲『雪模様』Temps de neige (1903) の作詞者でもある。

 

創刊号のトップにラロワによる巻頭言「読者に」が掲載され、メルキュール・ミュジカル誌創刊の抱負のようなものを述べている。1905年というと、パリ音楽院に対抗するようにスコラ・カントルムが創立され、様々な対立が著しかった頃だった。同誌の立ち位置は中立的なもので、巻頭言の中で「我々のコンサートは不協和音がある。それを避けるのではなく、反対意見の衝突からむしろ、真実を探り出すこと」を目標としている。

 

巻頭言の末尾は、同誌のような編集方針に賛同してくれる人への感謝を述べているが、一人だけ挙げるとするなら、と前置きして、表紙に作品を提供したルドンにオマージュを捧げている。「特に色彩と線の名伏し難き音楽家、メートル・オディロン・ルドンからこの美しく思索的な肖像を借りている。言うまでもなく(同誌は)この象徴に値することを約束する」。

 

 

 

画家ではなく、音楽家と呼ばれたルドンが音楽雑誌の表紙に選んだのは、『眼を閉じて』のヴァリエーションだった。

 

 


革袋

 

The Temptation of St. Anthony

Tranlated by Lafcadio Hearn

 

ギュスターヴ・フローベルの『聖アントワーヌの誘惑』の英訳版、ルドンのリトグラフ(主に第3集から)を「イラスト」として加えている。

 

フランスの戯曲を英訳したものなので、なんだと思われるかもしれないが、ラフカディオ・ハーンの英訳にとても興味がわく。フローベルのフランス語版が出た直後に訳されたが、出版されたのはハーン没後のこと。

 

英語の表現について詳細に伝えることはできないが、一例としてルドンの版画のタイトルになった箇所を挙げてみる。戯曲後半の「革袋のごとく丸い、海の獣たち」を、ルドン展カタログ(MoMA, Beyond the Visible, 2005)記載の同じ箇所と比較してみた。

 

 

 

原文 Les bêtes de la mer roundes comme des outres

英訳 MOMA Catalogue, The Beasts of the Sea, Round like Leather Bottles

英訳 Hearn, The beasts of the sea round as wineskins

 

outreは辞書上では革袋、特に昔のワインを入れた袋。「新しいワインは古い革袋に入れてはいけない」(マタイ)。英語ではwineskinとそのままで、ハーンはこの単語を使っている。Leather Bottleでは丸み感がでないけれど、革袋にワインを入れる時代ではないから(驚いたことに絶滅はしていない)、仕方ないのかもしれない。

 

30年近くかかった『誘惑』が1874年に出版されたときは、売れ行きはよかったものの、批評家からは低評価だったらしい。怪談ものの得意なゴーティエからも酷評されたのに、『怪談』の作者が西洋の怪物の宝庫『誘惑』を訳すほど高い関心を持っていたことが興味深い。


ルドン展

2013年以来でこの10年開催の頻度が高まっているルドン展、今回は植物をテーマとした。

 

フランシス・ジャムは批評「植物学者ルドン」で画家のの顰蹙を買ってしまったが(その後仲は直り、ジャムの結婚式にもジッドと共に参列した)、周囲にそうした印象を持たせるほどルドンの植物に対する関わりは深い。

 

印象派だけでなくセザンヌやゴーギャン、ゴッホも花や植物を描いたが、ルドンの描く植物は彼らとは違い(といっても、ルノワールの薔薇の絵は好きだった)、ゲーテの原・植物のような木炭画から、「パステルが花になった」作品まで様々だった。

 

今回の展覧会で意欲的だったのは、グラン=パレでも再現展示された、ドムシー邸食堂装飾の再現がされていたことで、装飾の配置が実感できるようになっている。残念なのは、緑に囲まれたドムシー邸なら、窓から木々が見えるはずなのに、密室となってしまっていることだった。

 

 

装飾のうちでも、大きなハープと人物のいるパネルがルドンらしい。

 

 

 

今年はオランダでも大きな展覧会が開かれるというから、当たり年かもしれない。


枯れ葉の沈んだ香り

ということは(7月7日からの続き)、1903年秋に書かれた手記はゴーギャンを念頭に置いていたのかもしれない。

 

錆びた金色の風景、しみ入る美しさ、重々しい平和、沈黙、足もとに厚く積もった落葉、……

おお枯れ葉の沈んだ香りよ、秋の庭で、消え去った生活の思い出を生き返らせる……葬式のようなさびしい魅力よ、この下で、すべて逝って帰らぬもの、別れを告げるものを含んだ死は、甘いものであろう。

私自身に、p131

 


シャルル・ワルトナー

19〜20世紀前半に活躍した版画家、ローマ大賞を受賞しフランス版画界の王道をいった人だった。当時の版画家と同じく過去や同時代の巨匠の作品を数多く版画にした。活躍した時期は写真の出現と重なるが、芸術性を追求したので生き残ることができた。

 

ミレーの『晩鐘』で、(当時の)写真では表現困難な逆光の表現にワルトナーの技術が最大限に発揮されている。

 

 

Angelus

 

ミレーの原画

 

 

ワルトナーの作品でよく知られていると思われるのが、ルパージュの絵をもとにしたサラ・ベルナールの肖像かもしれない。後にフランスで発行された切手にも影響している(切手の版画家は別の人)。

 

 

Sarah Bernhardt

 

 

 

ローマ大賞を受賞する前にワルトナーはジェロームのアトリエで勉強していた。このアトリエで知り合ったのがルドンだった。共に同じ版画の世界で活躍したが題材への興味も技法も対照的なくらい相違し、それにも関わらず生涯友人であり続けた。ルドンはワルトナーの肖像を描き、1912年の「ルドンへのオマージュ」という企画では、ナビやフォーヴィズムの画家に混ざってワルトナーも連なっている。

 

 

ルドンが描いたワルトナー、1912年

 

ワルトナーはルドンからパステル画『花ー雲』を購入して所有していた。この作品について「花のような雲の浮かぶ空の下、水の上に漂う一隻の小舟。つけるべき題名は『花ー雲』だ。」とルドン自身がコメントしている。

 

 

花のような雲

 

もう一点、素晴らしい水彩画の所有者でもあった。

 

 

花と少女

 

 


Paysages

昨年末からボルドーで開催されていたルドン展の図録を入手。

 

 

興味深いテーマがたくさんある。

『夢のなかで』は、思った通りオルフェウスとの関連がとても強いことを再認識できたのが収穫。

 


古い通り

これまでショーソンに関する本はフランスでもほとんど出版されてなくて、1967年のジャン・ガロワのものがいまだに唯一のまとまった評伝のようである(R. S. Groverの英語版もあるらしい)。

 

若い頃からマダム・ド・レイサックのサロンの常連だったことは知られているが、本のなかにサロンの所在地について記述があり初めて場所がわかった。早速地図でみると、サン・シュルピス教会とリュクサンブール公園の間にある一区画であった。通りに詳しいfr.wikipediaをみると、同じ通りの13番はリトグラフの発明家ゼネフェルダーが店を出していたこともわかった。

 

ルドンが転写紙を用いてリトグラフを制作する方法を教わったのは同じサロンの常連ファンタン・ラトゥールからであり、最初の石版画集『夢のなかで』も予約購入したのはサロンのメンバーが中心だった。

 

この頃まで石版画のブティックがあったかどうかはわからないが、偶然とはいえリトグラフの発明家とその技法で最高の作品をのこした版画家が同じ通りに関わっていたことが、コスモポリス都市パリならではのことに思える。

 


フルーリス通り27番

パリ左岸に建つ古いアパルトマン、調べていたらここに過去住んだ人たちに次々と行き当たった。



27 Rue de Fleurus, Paris

このアパルトマンには既に名声を得ていたジャン=レオン・ジェローム(1824-1904)が住んだ(1846〜1854)。この時期に代表作のいくつかを描いている。後にブリュッセル通りに引越した。短期間ながらルドンが師事したのはジェロームの私塾だった。

少し間をおいて1882年に、画家を志してポーランドから来たアンナ・ビリンスカ(1857-1893)が住んだ。地元ポーランドでは既に絵画展に出品したりしていたが、パリに来てジュリアン・アカデミーで研鑽を積む。経済的に厳しい状態だったが医者の父親が亡くなるといよいよ窮乏し、ジュリアン・アカデミーで教えるようにもなる。1892年に結婚してワルシャワへ転居した。ここでパリのようなアカデミーを開こうとするが、心臓発作で1893年に亡くなる。36歳だった。


自画像、アンナ・ビリンスカ

ビリンスカと入れ違いのように入居したのがルドンだった(パリで住んだ場所)。子供も生まれ、故郷からの送金も途絶えがちで窮乏気味だったので、ビリンスカが引越して空いた部屋だったのかもしれない(これは未確認であるが、画家であれば同じ条件の部屋に入る可能性はある)。1年ほど暮らしてルガール通りに引越した。送金が止まりいよいよ窮乏の度合いが強くなり、家賃が高く思えたのかもしれない。

このアパルトマンを決定的に有名にしたのはルドンではなく、1903年以降レオンとガートルードのスタイン兄妹が住んでからだった。特にガートルードはマティス、ドラン、ピカソ、ブラックといった当時の現代絵画を収集し、部屋にはルドンの作品(花)もあった。特にピカソの『アヴィニヨンの娘たち』は制作途中を目にした数少ない一人で、肖像画も描いてもらっている。


ガートルード・スタイン、後ろにピカソが描いた肖像、撮影はマン・レイ

アパルトマンのサロンには画家だけでなく、作家が数多く出入りしていた。スタインは第二次世界大戦が始まるまでアパルトマンに住んだ。

ジェロームやスタインが住んだのは家賃が高く広い部屋で、ビリンスカやルドンが住んだのは、より安い上の階だったのかもしれない。

100e anniversaire de sa mort

ルドンは大戦の最中1916年7月6日に亡くなった。今日はちょうど100年目。
亡くなる前日にコレクタ―で友人のギュスターヴ・ファイエはルドンを見舞い、手記にそのときの様子を書き残していた。それによると高齢ではあったが本人も周りの人も亡くなるとは思ってもいなかったらしい。



同年生まれのモネくらい更に長生きしていたら、やはり最後まで描き続けたように思う。

マレーヌ姫

マレーヌ姫 La princesse Malaine, 1889.
Maurice Maeterlanck

『青い鳥』や『ペレアスとメリザンド』のほか、あまり知られていないメーテンリンクの最初に出版された作品が『マレーヌ姫』だった。大正時代以降長らく翻訳は出ていないが、復刻版(本の友社)が図書館にあったので読むことができた。


初版扉

『マレーヌ姫』が気になったのは、ルドンのエッチングに同じタイトルの作品があり、しかも8部しか刷られていない(銅板が残っていて没後に第2版が刷られている)ことから、作家からの依頼ではなく自主的に制作したらしいからだった。


La princesse Malaine(没後1922年版)

マレーヌ姫の表情はヒアルマル王子の科白に拠っているのではないかと思われる。

然しあの女は妙に眼を伏せて――両手の指を組合せて――それから不思議な白い睫毛!――そしてあの女の顔付! 恰度急に新しい清水の大きな泉に来たやうな氣持がする……(1幕第3場、鷲尾浩訳)

『マレーヌ姫』は自費出版した少数部のうち1部をマラルメに送り、そこからオクターヴ・ミルボーに渡り、ミルボーにより『ル・フィガロ』上で絶賛記事が掲載された経緯がある。

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