Paysages

昨年末からボルドーで開催されていたルドン展の図録を入手。

 

 

興味深いテーマがたくさんある。

『夢のなかで』は、思った通りオルフェウスとの関連がとても強いことを再認識できたのが収穫。

 


古い通り

これまでショーソンに関する本はフランスでもほとんど出版されてなくて、1967年のジャン・ガロワのものがいまだに唯一のまとまった評伝のようである(R. S. Groverの英語版もあるらしい)。

 

若い頃からマダム・ド・レイサックのサロンの常連だったことは知られているが、本のなかにサロンの所在地について記述があり初めて場所がわかった。早速地図でみると、サン・シュルピス教会とリュクサンブール公園の間にある一区画であった。通りに詳しいfr.wikipediaをみると、同じ通りの13番はリトグラフの発明家ゼネフェルダーが店を出していたこともわかった。

 

ルドンが転写紙を用いてリトグラフを制作する方法を教わったのは同じサロンの常連ファンタン・ラトゥールからであり、最初の石版画集『夢のなかで』も予約購入したのはサロンのメンバーが中心だった。

 

この頃まで石版画のブティックがあったかどうかはわからないが、偶然とはいえリトグラフの発明家とその技法で最高の作品をのこした版画家が同じ通りに関わっていたことが、コスモポリス都市パリならではのことに思える。

 


フルーリス通り27番

パリ左岸に建つ古いアパルトマン、調べていたらここに過去住んだ人たちに次々と行き当たった。



27 Rue de Fleurus, Paris

このアパルトマンには既に名声を得ていたジャン=レオン・ジェローム(1824-1904)が住んだ(1846〜1854)。この時期に代表作のいくつかを描いている。後にブリュッセル通りに引越した。短期間ながらルドンが師事したのはジェロームの私塾だった。

少し間をおいて1882年に、画家を志してポーランドから来たアンナ・ビリンスカ(1857-1893)が住んだ。地元ポーランドでは既に絵画展に出品したりしていたが、パリに来てジュリアン・アカデミーで研鑽を積む。経済的に厳しい状態だったが医者の父親が亡くなるといよいよ窮乏し、ジュリアン・アカデミーで教えるようにもなる。1892年に結婚してワルシャワへ転居した。ここでパリのようなアカデミーを開こうとするが、心臓発作で1893年に亡くなる。36歳だった。


自画像、アンナ・ビリンスカ

ビリンスカと入れ違いのように入居したのがルドンだった(パリで住んだ場所)。子供も生まれ、故郷からの送金も途絶えがちで窮乏気味だったので、ビリンスカが引越して空いた部屋だったのかもしれない(これは未確認であるが、画家であれば同じ条件の部屋に入る可能性はある)。1年ほど暮らしてルガール通りに引越した。送金が止まりいよいよ窮乏の度合いが強くなり、家賃が高く思えたのかもしれない。

このアパルトマンを決定的に有名にしたのはルドンではなく、1903年以降レオンとガートルードのスタイン兄妹が住んでからだった。特にガートルードはマティス、ドラン、ピカソ、ブラックといった当時の現代絵画を収集し、部屋にはルドンの作品(花)もあった。特にピカソの『アヴィニヨンの娘たち』は制作途中を目にした数少ない一人で、肖像画も描いてもらっている。


ガートルード・スタイン、後ろにピカソが描いた肖像、撮影はマン・レイ

アパルトマンのサロンには画家だけでなく、作家が数多く出入りしていた。スタインは第二次世界大戦が始まるまでアパルトマンに住んだ。

ジェロームやスタインが住んだのは家賃が高く広い部屋で、ビリンスカやルドンが住んだのは、より安い上の階だったのかもしれない。

100e anniversaire de sa mort

ルドンは大戦の最中1916年7月6日に亡くなった。今日はちょうど100年目。
亡くなる前日にコレクタ―で友人のギュスターヴ・ファイエはルドンを見舞い、手記にそのときの様子を書き残していた。それによると高齢ではあったが本人も周りの人も亡くなるとは思ってもいなかったらしい。



同年生まれのモネくらい更に長生きしていたら、やはり最後まで描き続けたように思う。

マレーヌ姫

マレーヌ姫 La princesse Malaine, 1889.
Maurice Maeterlanck

『青い鳥』や『ペレアスとメリザンド』のほか、あまり知られていないメーテンリンクの最初に出版された作品が『マレーヌ姫』だった。大正時代以降長らく翻訳は出ていないが、復刻版(本の友社)が図書館にあったので読むことができた。


初版扉

『マレーヌ姫』が気になったのは、ルドンのエッチングに同じタイトルの作品があり、しかも8部しか刷られていない(銅板が残っていて没後に第2版が刷られている)ことから、作家からの依頼ではなく自主的に制作したらしいからだった。


La princesse Malaine(没後1922年版)

マレーヌ姫の表情はヒアルマル王子の科白に拠っているのではないかと思われる。

然しあの女は妙に眼を伏せて――両手の指を組合せて――それから不思議な白い睫毛!――そしてあの女の顔付! 恰度急に新しい清水の大きな泉に来たやうな氣持がする……(1幕第3場、鷲尾浩訳)

『マレーヌ姫』は自費出版した少数部のうち1部をマラルメに送り、そこからオクターヴ・ミルボーに渡り、ミルボーにより『ル・フィガロ』上で絶賛記事が掲載された経緯がある。

もう一つの『ヴィジョン』

ごく若い頃サロンに出展した作品を除くと、ルドンのデビューといえるのは石版画集『夢の中で』の発表で、大量に刷ることができる石版画なのに(クライドルフも1000部単位で刷っている)、僅か25部の制作だった。全てが現存しているかどうかわからないが、岐阜県美術館には1セットあり、パリ国立図書館にも少なくとも1セットある。

たまたま Galica で『夢の中で』の『ヴィジョン』をみていたら、どこか違う感じのものがあった。


『ヴィジョン』、M34


どこか違う『ヴィジョン』

見つけた『ヴィジョン』は、全体的に荒っぽく、黒の輝きがまだ不十分な試し刷りのようにみえる(以下試し刷りとしておく)。中央で輝く眼をみると、何か別のものが描かれていたようで、前段階では同じ石版画集の『孵化』のような球体のなかに何かいるような構想だったのかもしれない。ルドンにはよくあるが、描いている過程で眼との共通性に気付いて変更したこともありうる。



試し刷り


最終版

左下の人物たちも違っている。試し刷りでは右の人物が服装から女性と思われる左の人物の手をとって歩いているが、最終版と比べると、輪郭以外判然とせず、右手の月桂冠も背中のリラもなく、より曖昧な状態であった。



試し刷り


最終版

メルリオの1913年のレゾネから2011年の図録(プチ・パレ)まであたってみたが、試し刷りの存在に触れているものはなかった。ルドンは『夢の中で』をそれまでに描いた木炭画を石版画に転写したものだと言っているが、画集のなかの作品で実際にもととなった木炭画が確定されているのは2点しかなく、この『ヴィジョン』も元のデッサンはしられていない。『ヴィジョン』は、直接大理石の上に描き修正していったのではないかと思われる。

別の魚

これも立派なピチ



poisson d'avril





本質の蜃気楼

すべて象徴となるもの、意外なもの、明確さを欠くもの、定義し得ないもの、謎の様相を呈するもの、彼らはそこから遠ざかる。




再びキュクロプス

怖い絵
中野京子
角川文庫、2013年
朝日出版社、2007年



芸術作品で「怖い」というとき、まず思い出すのはリルケの天使のこと。

美は恐ろしきものの始めにほかならぬ。私らは辛うじてそれに耐え、
そうして私らがそれえを讃えるのも、むしろ私らを打ち砕くにも当たらぬと
それが冷酷に突き放しているからに過ぎぬ。すべての天使は恐ろしい。
高安国世訳

作家・ドイツ文学者という経歴の著者による『怖い絵』の「怖さ」はリルケの怖さではなくもっと卑近なものだった。そのため芸術作品をキワモノ的に扱っているような印象があった。こんなふうに見方を固定してしまうとそのようにしか見ない人が増えるのでたちが悪い。

2007年に出版された『怖い絵』は人気があり、続編が何冊も出て文庫本にもなった上、類書まで出版された。出版不況下にあるので出版社側で歓迎されているようである。

最初に刊行された本にルドンの『キュクロプス』をとりあげた章がある。前半はギリシア神話の解説で、後半は画家が描くに至った心理の分析にあてている。問題なのはその後半部分で、著者はルドンの複雑な母子関係を背景に『キュクロプス』を分析していく。

親に嫌われて地底へ追放されたポリュペモスと同じように、母に流刑されたと感じていたルドンは、母の愛を絶望的に求めつつ、カーテンの陰から、室内の片隅から、そっと母の姿を盗み見して「奇妙な喜びを感じていた」のではないか。自分は身を隠しながら相手を思うさま見つめるというのは、相手に知られないで相手を所有することである(角川文庫版200ページ)。

実際には両親から捨てられたという事実はなく、むしろ逆であったことも明らかになっている。

「カーテンの陰から……」というのは、ルドンの『私自身に』にある子供の頃の記憶「黙っているのが好きでした。影を求める子供だったのです。家の中では暗い隅々を求め、遊び部屋でも、大きなカーテンの後ろに隠れていることに、異常な深い喜びを感じました」(私自身に、9ページ)という一節で、それを自説に都合良く引用(ニュアンスの違いがある)している。しかし『私自身に』を読んでも母の姿を盗み見したということはどこにも書いていなく、憶測の域をでていない。ここでは「〜のではないか」と仮定で書いているのに、いつの間にか断定されている。

次の一節は誰によって認められた真価かを考えると、事実と異なっていると言わざるを得ない。

象徴派の詩人マラルメなどに絶賛され、ようやく六十歳近くなって彼の真価は認められる。それとともに作品に色彩があふれはじめる。(201ページ)

その後の展開と関係させるために60歳あたりを真価が認められる年齢としたようだが、マラルメの絶賛は1885年(45歳)、ゴーギャンからは86年に得ている。一方、一般からは生前を通じて顧みられることはなく(ジュリエット・ドデュに関する1914年の記事がそれを証明している)、ルドン自身も一般からの評価は全く気にしていなかった。

本人はどう感じていたか。

私は感じます。時間がその価値を二倍にするあの時、つまり、芸術家が己を知り、もはや径に迷いようのないあの瞬間がやって来つつあるのです。

そう手紙に書いたのは1894年(54歳)の時であった。

色彩作品も生涯を通じて常に描き続け、「黒」からの転換は90年代(つまり50代)であった。『怖い絵』ではそれに続いて

『キュクロプス』は、ルドンが黒・孤独・死を少しずつ脱却する過程で描かれた作品だ。(202ページ)

「黒」はルドンにあって、生命の根源的なところから由来している。色彩はその中に黒を内在させていて、それを脱却とするのはルドンの色彩の本質を見誤っている。孤独は創造的な作品を制作する必然と理解し、後に書いた文章でも必要なものと考えていた。また、「死」を脱却する芸術家がいるのだろうか(せめてやなじじーの芸術論を読もう)。

華やかとはいえないが、色が増えている。神秘的で幻想的ではあるが、人間的でもある。何よりポリュペモスへの共感がある。このようなポリュペモスを描けたということは、ルドンに自己客観視ができるようになった証といえよう。この絵を描くことで、ようやくルドンは辛い幼年時代を克服したのだろう。(202ページ)

ルドンは若い頃から同時代の画家よりも冷静に自己を客観視できていた。

とはいえこれは五十八歳のときの作品であり、傷ついた心を癒すのにいかに長い時間を要したか、深い感慨を覚えずにはいられない。(202ページ)

と続いていくわけであるが、『キュクロプス』は1914年に制作されたことが1994年に既に明らかになっている(→詳細)。そうすると、1898年(ルドン58歳)制作を前提にした『怖い絵』の分析は根底から崩れ去る。また、この58歳という年は、ペイルルバードが売却され、ルドンと母親・兄弟(兄エルンストと弟ガストン、兄の売却決定を親子が支持し、ルドンは兄を相手に訴訟を起こすことになる)の関係が決裂した年でもあった。

ルドンの母親は長生きして1909年に89歳で亡くなった。そのときの心境は煩わしさからの解放だった(友人宛の書簡)。1914年に『キュクロプス』を描いたときに、幼年時代を克服する必要は何もなかったのである。

全体として著述にあたって事実関係の確認が欠けている。

前にも『キュクロプス』には変な解釈がされていたが、ルドンの作品は誤解を受け易いのも事実である。

本書からリルケの詩のような「怖さ」を期待しても、何も得られない。


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