渦中のトートバッグ


オリンピックロゴの関連で有名になったサントリーのトートバッグのなかに、ニーチェの『ツァラトゥストラ』の一節(第3部、重力の霊)を英訳でデザインしたものがあった。丁寧にも最後に署名がされていて、Nietzscheの”c”が抜けている、と指摘されて話題になっている。


しかし、この署名でもっとおかしいのは、Friedrich Wilhelm Nietzshe (原文のまま)と署名されていることで、皇帝ヴィルヘルムが大嫌いだったニーチェは Wilhelm を署名に決して入れなかった。略すときは F. N. とだけ記した。


それなのにもっともらしく Wilhelm と入っているのは、Friedrich Nietzscheではなく、Friedrich Wilhelm Nietzsche が本名だということを(デザイナーはどこかで知って)知っているんだぞ、とアピールしたいだけのように思える。


しかし、Wilhelm を嫌っていたことまでは知らなかったようで、底の浅さを露呈する結果に終わった。



Tote Bag は、デザイナーにとって Tod Bag になってしまった。



本のソムリエって


企業に雇われているのがコンシェルジュ、自営業がソムリエではないかと思っている。もともとはワイン業界由来の言葉で、ワインの世界では資格認定の試験がある。調べた限りでは「本のソムリエ」資格の情報はなかったので、オーソライズされてなく誰でも標榜できるようである。


有名なソムリエのサイト(複数)をみると、1日1冊読むのが日課らしい。逆に言えば、1日で読み切れない本は扱わない。また、売れそうにない本、話題になっていても内容の難しそうな本(例えば『ラインズ』)には手を出さない。


ワインのソムリエならば、勧めないワイン(または飲み方)というのはあるが、本のソムリエは全て勧める。


 ニーチェは『暁光』のなかで自身の読み方を記している(1行に数日費やす、ニーチェは古典文献学者だった)が、そのような読み方は一切しない。


そのニーチェに関して、あるソムリエが紹介する本のなかに『超訳ニーチェの言葉』があった。『ツァラトゥストラはこう言った』に挫折したが超訳は読めたという。このタイトルからすると氷上英廣訳の岩波文庫版と思うが、氷上訳はとても読み易く、どうやったら挫折できるのか不思議なくらいであった。


ソムリエのやり口は、目についた一節を適当に抜き出し、コメントする。


自分を知る。自分を愛する。一日一日を生きる。批判を受け入れる。すべての人から好かれなくていい。(ここまでは超訳の一節)


21世紀の私たちは、すでにこれぐらいのことは、知っています。成功哲学、心理学、自己啓発として、普通に語られている内容です。 

紹介ページ


ステレオタイプなまでに常識的にしか対応できずに片付けてしまっている。こういう人は『非常識な読書のすすめ』を読んだほうがよいのではないか。その本には次のような一節がある。


常識に操られ、支配されてはいけません。常識を疑い、自分の心を強くする訓練のために読書はあるのです。(p71)


 冗談はともかく、本当に知っているのか?(哲学は問うことから始まる)

普通に語られているといって挙げた分野は心理学を除いてニーチェとは無縁である。


「超訳本」で書いたように、『超訳ニーチェの言葉』は内容に問題が多々あり、とてもニーチェの思想を紹介しているとは言えない代物であるが、このソムリエ氏は超訳(原書ではない)の訳者も驚くだろうような誤読した結果、誰も思いつかなかったような(低レベルの)コメントをつけて終えている。超訳にはふさわしいソムリエと言えるが、普通に考えたらこのようなソムリエ不要である。


このようなソムリエは一人ではなかった。そのソムリエにとって、原書(翻訳)は難しくて読み切れなかったらしい。超訳ではないけれど、こんなコメントをつけている。


ニーチェは、善、道徳が大切だと主張していますが、

紹介ページ


やはりソムリエは不要。


全てのソムリエのレベルがどうかわからないけど、ネットで見たソムリエの多くは同じようなレベルだった。これならアマゾンの読者評のほうが質は高い。


図書室への階段



代官山蔦屋書店


4年前にオープンして以来、一度も行ったことがなかった代官山の蔦屋書店に初めて行ったのが今年の1月、売っている本の数は多いのに興味のある本がほとんどないという異常な品揃えに驚いた。先日再び行く機会があり、あらためて全ての売場をまわってみた。


代官山蔦屋書店, Apple mapから


蔦屋書店は書籍・出版が低迷しているなか、(公式サイトによると)蔦屋の原点に戻ったうえで新しいコンセプトのもとに書店を代官山にオープンさせた。このプロジェクトを手掛けたのは、カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社(CCC)で、同社は書店事業(TSUTAYAは直営のグループ企業)とTポイントを中心に運営を行なっている。レンタル業が主体のTSUTAYAはもともと書店として1983年に創業した経緯があり、代官山蔦屋書店は、当時書店に訪れていた人(60代以上か、CCCではプレミアム・エイジと呼んでいる、後述)をターゲットとした。


写真は撮らなかったので、Street view


店内は経営の思惑に反して、プレミアム・エイジ層より若い人のほうが多かった。


外壁はT(Tポイントか)のモティーフ


公式サイトなどによると、従来の書店と違っているのは、書籍以外の商品を扱う、ターゲットに合わせて本の分野を限定している、カフェのなかに書店があって本を読める、コンシェルジュを置いていることなど。


書店内をひと回りしてまず、どこに何の本があるのかさっぱりわからなかった。各分野をそれぞれコンシェルジュが担当して、陳列する本を決めているようであるが、配列もコンシェルジュに任されているようである。


日本のしっかりした書店は図書館にならって十進分類を基本的に取り入れているし、ヨーロッパの初めて入る書店でも、どこに何の分野の本があるかはすぐわかるようになっている。文芸書は比較的まともだったが、美術書はひどかった。やたらに洋書が多く、しかも内容のない本ばかり。丸善や雄松堂ギャラリーに並んでいるような本は(排除されているのか)全くない。ここではコンシェルジュが選ばなかった本のほうが価値があるようにさえ思える。比較的まともな文芸書も、間もなく刊行されるシュオッブ全集が置かれる可能性は低い。


発売されたばかりの『ケルズの書』(岩波書店)を探してみたけれども、店頭になかった。各コンシェルジュの裁量で本を仕入れているようなので、美術書なのに哲学や宗教の棚にあったりする。検索システムも制限があって十分に引き出せない。こういう時に聞くためのコンシェルジュは週末で休みなのか、探しても見つけられなかった。


レイアウトにしてもわかりにくく、まず現在地をつかめず、小部屋に分かれているためフロアの展望ができない。錯綜する図書館の代表であるような『薔薇の名前』の図書館でさえ、配列の規則はあった。


このスタイルの書店の存在意義はどこにあるのか、少なくとも必要な本を代官山まで来て買う、という用途には全く向いていない。都内の従来型大書店のほうが充実しているし、それこそAmazonを利用してしまう。古書も置いているが、専門古書店のような内容は本にも店員にも期待できない。


蔦屋書店のコンセプトは文化通信の取材によると「森の中の図書館」だそうである。


緑に包まれた閑静な住宅街にある蔦屋書店のコンセプトは“森の中の図書館”だという。同社が“プレミアエイジ”と呼ぶ団塊世代前後の客層をターゲットに、落ちついた環境の中で趣味に勤しめるような施設を構築した。20〜30代の若者が客層の中心であるTSUTAYAがこのような店舗をオープンした背景には、若年人口減少への対応と、TSUTAYA創業時(83年)に客層の中心であった当時の若者たちに、再度TSUTAYAに足を運んでもらう狙いがある。


表向きはプレミアム・エイジへの提案であるが、裏ではマーケットリサーチを行なった上で今後お金を持っていそうな世代にターゲットを絞ったというところである。それが端的に現われているのは、自動車関係の比率が不釣り合いなくらい大きいことで(専門書店を買収したようである)、トヨタなどメーカーが既に把握しているように、若い世代は自動車そのものへの関心が薄く買おうとしないのに対して、あたりまえに購入して乗り回してきたプレミアム世代しか関心を持ち得ない状況になっている。

83年というと昭和58年、当時流行った「森の木樵の気まぐれパスタ」のノリだろうか。


知的財産の宝庫である図書館は決して森の中に置かれることはなかった。アカデメイア、リュケイオン、アレクサンドリア、エフェソス、バグダットといった古代図書館は全て都市にあり、常に都市機能とリンクしていた。一見田舎や山の中にあると考えがちな修道院図書館も交通の要所であることが多い。「森の中」のコンセプトは文化の伝統を無視したキャッチコピーであり、その点ではこの品揃えに満足する(質が高いとは思えない)プレミアムエイジ層にターゲットが合わせられている。


文化の保護・存続を多少とも担ってきた従来の大書店に対して蔦屋書店は企業の保護・存続のための「図書館」である。蔦屋書店の新しいコンセプトには、古代から続く書物の文化への敬意がみられず、未来に対しては消費しか提案しない、文化を衰退しかねない危険があるように思える。


書店にカフェ併設というスタイルは蔦屋に限らず増えているが、普通は独立させている。国会図書館の書庫フロアはトイレなど水気のあるものを一切なくしているように、湿気は本にとってよくない。


コンシェルジュという肩書きは何なのか、図書館には司書がいるし、本のソムリエというのもいる。


コンシェルジュを fr.wikipedia でみると、12世紀に初めてこの単語が登場し、当初は王や貴族の領地の管理人を意味していたようである。神聖ローマ帝国の役職では宮中伯に相当するのかもしれない。領主が来訪すると、管理人として様々な情報を提供し、滞在の便宜を図り、領地を視察のため案内をしたりする。後にはアパルトマンの管理人がこの名称で呼ばれるようになり、ここから転じて、ある専門分野で案内する役割がコンシェルジュとなっていったようである。蔦屋書店では本の選定と配置、お客からの要望にあった本の提案、イベントの開催などを行なっている(ccc公式サイト)。


司書も図書館内でコンシェルジュと同じような役割であるが、前者は図書館法第五条で規定された、文部大臣が指定する国家資格であるのに対し、後者は無資格である。


司書は都道府県や市町村の公共図書館等で図書館資料の選択、発注及び受け入れから、分類、目録作成、貸出業務、読書案内などを行う専門的職員です。司書補は司書の職務を補助する役割を担います。

司書・司書補になるための資格は司書講習を受講するほか大学・短大で単位を履修することで取得できますが、司書・司書補として活躍するには当該自治体の採用試験を受けて図書館に配属されないといけません。

司書について、文部科学省


紹介された経歴をみても蔦屋のコンシェルジュは司書資格を持っていないようである。


前に『戴冠式福音書』コメンタールを雄松堂で入手してもらったようなことは、蔦屋のコンシェルジュには到底出来ないように思える。


店内のスペースで鉱物(たいしたものではない)を展示・販売していた。それら商品に関心を持てば当然その近くに関連書籍が並んでいるのを期待する。しかし周囲の棚に全く関連本は置かれていなかった。紀伊国屋書店や丸善だったら必ず関連書コーナーを設置するのに、コンシェルジュはそこまで考えがいってないように思える。


蔦屋書店で唯一の収穫は、金沢さん監修の聖プロコロのブロマイド?だった(撮影は菅野康晴さん)。不毛の森の図書館にあって、唯一希望の花にみえた。この商品にしても、『青花』の近くに置き、あわせて金沢さんの『イタリア古寺巡礼』のシリーズを展示しておけば、関心を持ったお客にとって得るところ大であるとは思うが、そのようなことは一切せず、部屋の隅に何の説明もなく置いてあっただけである。


この書店の欠陥は、個々のコンシェルジュに任せきりにしているので、コンシェルジュ自身の力量で内容が左右されること、コンシェルジュ間のつながりを断ってしまっている点ににあると思える。このためあるべき本がない、美術書コーナーにあるべき本が哲学書コーナーにある、といった弊害が起こっている。


個性を持ったお客さまに、個性を持ったコンシェルジュが生活提案をし、コンシェルジュたちはまた、お客さまによって成長していく。

CCC、コンシェルジュについて


コンシェルジュの成長はまず企業が教育ですべきことではないのか。お客任せというのは甘えているように思う。


新潮社が昨年神楽坂にオープンした la kagu のほうがコンセプトが明確でおもしろく、行くとしたら代官山より神楽坂を選ぶ。


神楽坂 la kagu



絵画の超訳


最近まで開催されていた(と思っていたら延長されていた)「フェルメール 光の王国展」は、全く見る気が起こらない。そのためこれまで同様この先も見る機会はないが、世の中では来場者数が10万人を越え、大盛況だったらしい。

この展覧会のウリは「フェルメールの全37作品を最新の印刷技術でデジタルマスタリングした“リ・クリエイト作品”」(主催側の説明)なのだそうである。


リ・クリエイトというのは主催者の説明によると、


これまでの複製画は、オリジナル(原画)に忠実であることが重要視されてきました。しかし、オリジナルは経年や修復、洗浄による退色や変化が避けられず、状態はさまざまです。かならずしも現存するオリジナルが、作家が求め描いた作品(本当の意味でのオリジナル)の状態とは一致しません。

それでは、350年前にフェルメールが求めた色彩とはどういうものだったのでしょう。『フェルメール光の王国展』では、科学的な検証、技術的な修正、さらに人的な感性を結集し、フェルメールが描いたであろう色彩を求め、誰も見たことのない鮮やかなフェルメール作品を完成させました。

私たちはその手法を「re-create」(リ・クリエイト)=再創造と名付けました。オリジナルから失われてしまったものをふたたび取り戻す。「re-create」 とは、作品の再創造という新しい複製画の手法です。

名古屋展公式サイト


こんなところで「創造」という言葉を使うのは違和感がある。フェルメールは結婚するときにプロテスタントからカトリックに改宗したが、そのカトリックで「創造」は神が無から創りだす行為を意味する。ラバヌス・マウルスの讃歌 Veni creator spiritus も、この解釈の延長にある。re-createは「再現」または「復元」のほうが適当である。


前に話題になったこちらのほうが、修復というよりリ・クリエイトに近いのは皮肉である。


「科学的」データを用いても解釈の余地が参入する。「フェルメールが描いたであろう色彩」を他人が憶測することの危険性、結果として「フェルメールも見たことのない鮮やかな作品」になっているような気がする。絵を保護するためのニスは経年変化が生じ、褐色になっていく。修復前の絵が茶色っぽいのもそのためで、表層のニス(褐色層)を除去すると、元の色の層が出て明るく鮮やかになる(退色については考えない)。画家は描いた直後から少し時間がたった状態の色バランスを念頭に入れている可能性もある。そう思うのは、展覧会の画像を見る限り青色が少しかぶっているように見えるからで、北方オランダの光の色と相容れないように思えたからだった。


これまで最も大掛かりな修復はシスティーナ礼拝堂のミケランジェロが描いた天井画と壁画と思われるが、修復時点(1980年代)で得られた様々な成果をもとに修復・洗浄を行なった。修復者は最終結果ではなく、現時点でなし得る最上の結果とみていた。将来、現時点で結論した結果と異なる新事実が出たときには戻せるようにする方針をとっている。


最新の科学(自然科学だけでなく)分析の成果を反映させているが、あくまで仮説であって今後新たな発見により否定され、別の色になってしまう可能性もある。


印刷は高精度のものを当然使っていることと思うが、残念ながら絵画(特に近代の油彩画)は立体物である。特にフェルメールは「砂」を用いた3次元的効果をとりいれている。


デルフトの眺望から、砂を用いた例



このような部分を詳細にみていくと、フェルメールの作品を表面的にみたとき感じる写実性は全くないことがわかる。にもかかわらず素晴らしいマチエール。ゴッホが素晴らしいといったのが納得できる。




あるいは、フェルメールのブラシストロークが現われた部分、こうした部分は立体的で、光沢を含めて見る位置により変わっていく。



どれほど精巧に複製された原色版でも、キャンヴァスと油絵具のとの結合に寄って生じた物質的な現れ方は、アートペーパーと印刷インキによっては到底再現出来ないということ。云いかたをかえれば、それほど独自な画面の肌の魅力を、本物の作品が持っていたという点である。……すぐれた作品は、ついに、そのものを手にとって見たくなるほど触覚の誘いをもっているものだ。

『岡鹿之助文集』から「マティエールの硬質化」、美術出版社、1982年



展示方法にも問題があり、色について気をつかっているようにみせながら、驚いたことに人工照明を使っている。もちろん、色温度を何らかの条件に合わせた照明と思われるが、展覧会場の様子を見る限り、スポット照明に近い。96年のフェルメール展では(UVカットした)自然光のもとに展示していた。


絵のための光について、ルドンは興味深いことを教えてくれる。


アムステルダムには、レンブラントが描いて、かけておいた絵が、そのままその場所に残っているものがある。絵を吊るしている釘は、レンブラントが自ら光線の効果を選んで、壁に打ったその釘である。

私自身に、68ページ


バルテュスも最もよい時間帯の自然光を大切にした。


「光の王国」を標榜して集客(高い入場料を支払う)した展覧会が、人工照明というのはお粗末すぎる。この展覧会の価値があるとすれば、スマホ撮影自由な複製画展という点だけである。



超訳本


最近大量に出回っている「超訳」された本、wikipediaによるとその定義は、


超訳とは、天馬龍行(アカデミー出版社長・益子のペンネーム)が考案した翻訳法で、作者が何を言おうとしているのかを主眼にして、読者が読みやすいよう自然に訳す、という概念の翻訳法である。直訳や意訳など、他の翻訳法と比較される。アカデミー出版の登録商標。

wikipedia


5年も前に『超訳 ニーチェの言葉』という本が出ていて、この分野の本にしては珍しくベストセラーを記録したそうである(発売から2年で110万部)。哲学書のコーナーはかなり定期的に見ているが、同じコーナーであっても見る位置が違っているので、これまで全く目に入らなかった。たまたま知る機会があったので、どんな内容かとAmazonのサンプルページをみてみたらとても驚いた。


034

この瞬間を楽しもう

楽しまないというのはよくないことだ。つらいことからいったん目をそむけてでも、今をちゃんと楽しむべきだ。

たとえば、家庭の中に楽しまない人がたった一人いるだけで、誰かが鬱々としているだけで、家庭はどんよりと暗く不快な場所になってしまう。もちろん、グループや組織においても同じようになるものだ。

できるだけ幸福に生きよう。そのためにも、とりあえず今は楽しもう。素直に笑い、この瞬間を全身で楽しんでおこう。

『悦ばしき知識』


上記のアンダーライン部分は、アフォリズム3−239に該当する。白水社版(グロイター版の邦訳)では次のようになっている。その前後は出典不明。全く文脈の異なる文をそれらしく継ぎはぎしているのがよくわかる。改変どころか改悪である。


3−239

楽しまない人間――ただひとり鬱々として楽しまない人間がいるだけで、家中がたえず不機嫌な、暗い気分になってしまう。また、こうした人間がひとりもいない場合などは、それこそ奇跡と言いたいくらいだ!――幸福のほうはとてもこんな伝染力を持った病気とはいえない、――どうしたわけだろう?

『華やぐ知慧』、氷上英廣訳


ニーチェを読むと、至る所にイロニーが 仕掛けられているが、それに気付かないのか引っかかってしまっている。

参考までに原文を挙げておく(Insel 版)


239

Der Freudlose. ― Ein einziger freudloser Mensch genügt schon, um einem ganzen Hausstande dauernden Mißmut und trüben Himmel zu machen; und nur durch ein Wunder geschieht es, daß dieser eine fehlt! Das Glück ist lange nicht eine so ansteckende Krankheit ― whoer kommt das?

Die fröliche Wissenschaft 3


「超訳」の「グループや組織においても」とはどこにも書いてないし、ニーチェがこのように書くはずもないことは著作を読めば明らかである。それにしても「できるだけ幸福に生きよう」とは……この安易さはニーチェが最も攻撃したものである。


本当に原文にあたっているのか、かなり昔に「偽書」が証明されている『力への意志』や『生成の無垢』まで他の著作と同様収奪の対象としている。


恣意的に組み合わされた文章は、「超訳」の定義から逸脱している。まるで「畜群」向けに内容を落として「教養俗物」が書いた印象が強い。そしてまたこの本に群がって高評価を下す人たちが多い 。Amazonのレビューをみると、69人が最高評価をつけたのに対して36人が最低と評価している。最高評価をつけたほとんどがニーチェどころか哲学書を読んだことがなく、インテリアになるからという基準で評価を高くしているような人たちだった。類似の傾向(もちろんもっと高いレベル)は欧米でもあるらしく、グロイター版ニーチェ全集の編集者は憂慮している。


今日、奇妙でいて注目に値する、しかも憂慮すべきニーチェ回帰を、われわれは体験している……このような大衆の需要と流行現象に対して、批判的精神と歴史的な意味は無力のままである。

モンティナーリ、眞田収一郎訳、全集編者の読むニーチェ、14ページ、未知谷、2012年


『全集編者の読むニーチェ』はとても面白く、「超訳」よりもずっと意義がある。同書で皮肉まじりな警告をしている。


ニーチェの側にいて、自由に呼吸できない人に、ニーチェを読むことは奨められない。別な言い方をすれば、ニーチェを教義化してはならない。

同15ページ


次は『人間的な、あまりに人間的な』から収奪されたアフォリズム、原文と比べてみると、全く意味が改変されてしまっているのがわかる。


心にはいつも喜びを

利口であれ。そして、心に喜びを抱け。できるならば、賢明でもあれ。そして心には、いつも喜びを抱いているように。

これが人生で最もたいせつなことなのだから。

漂泊者とその影


300

「なくてはならぬただ一つのこと」。――人が怜悧ならば、ただ一つのことだけ、すなわち喜びを心のなかに持つことだけで充分である。――ああ、残念ながら誰かが言葉をあとにつけた、怜悧ならば、賢明になるのが最善のことだ、と。

漂泊者とその影 浅井真男訳


次のアフォリズムの「人生を最高に旅せよ」は帯にも記載されている。


人生を最高に旅せよ

知らない土地で漫然と行程を消化することだけが旅行だと考える人がいる。買い物だけをして帰ってくるのが旅行だと思っている人もいる。

旅行先のエキゾチックさを眺めるのをおもしろがる旅行者もいる。旅行先の出会いや体験を楽しみにする旅行者もいる。一方、旅行先での観察や体験をそのままにせず、これからの自分の仕事や生活の中に活かして豊かになっていく人もいる。

人生という旅路においてもそれは同じだ。そのつどそのつどの体験や見聞をそのとき限りの記念品にしてしまえば、実人生は決まり切った事柄のくり返しになってしまう。

そうではなく、何事も明日からの毎日に活用し、自分を常に切り開いていく姿勢を持つことが、この人生を最高に旅することになるのだ。

漂泊者とその影


228

旅行者とその等級――旅行者は五等級にわけるのがいい、第一の、最下級の旅行者とは旅をしながら見られる連中である、――そもそも彼らは、旅をされるのであり、いわば盲目に等しい。その次のクラスは実際に自分で世間を眺める者たち。第三クラスは見た結果として何ごとかを体験する者たち。第四クラスは、体験したものを自分のなかに取り入れて生かし、それをさらに運んでゆく者たちである。最後の第五クラスは、最高の能力を持った若干の人々で、彼らは見るものすべてを体験し取り入れて生かしたのち、最後にどうしてももう一度、国に蛙やいなや公道や仕事において自分の内から取り出して生かさずにはいられない。――これら五クラスの旅行者と同様、そもそもすべての人間は人生遍歴の旅を行くのである、最下級の者はまったくの受動形として、最上級の者は内的過程の残留物を一切残さずに生を生き尽くす行為者として。

さまざまな意見と箴言、手塚耕哉訳


出典が間違っている『漂泊者とその影』(『人間的な、あまりに人間的な(下)2』)ではなく、『さまざまな意見と箴言』である。「超訳」は旅行の等級を挙げているが原文と微妙に違う。「内的過程の残留物を一切残さずに生を生き尽くす行為者」という到達にかなりの努力を要することは巧妙に省かれている。



悪い書物――書物というものはペンとインクと机を要求するはずである。しかし通例としては、ペンとインクと机が書物を要求する。それだからこそ現在では書物がつまらぬのである。

漂泊者とその影(133)


『超訳 ニーチェの言葉』によって、箴言が警句以下に成り下がってしまった。帯には「人生を最高に旅せよ」に加えて次の記載がある。


あなたの知らなかったニーチェ。今に響く孤高の哲人の教え。


後半はともかく、前半はその通りだった。もしニーチェがこの本を読んだら一言で終わる。


嘔吐!




竹ニケ


ルーヴル美術館展の帰り、ミッドタウンで目にしたサモトラケのニケ(複製)、竹林が背景というのはあまりにもひどいセンスである。




年収と読書習慣


ファンタジーに逃げる[下流]の人々 −「年収別」心底、役立った1冊、ゴミ箱行きの1冊

初出:PRESIDENT 2012年4月30日号

オンライン版初出:PRESIDENT Online、2013年7月6日


上記の見出しで、読書習慣と年収の関係について特集した記事が出ていた。出典はプレジデント社オンラインで、同社が調査した結果を2人のコンサルタントに評価してもらうといった内容である。


この記事の結論は以下の通りである。


知性がない人は、本も読まず、出世もできない──。読書習慣に関する調査結果からは、40代になっても年収500万円どまりの人と、上にいく人の決定的な違いが見えてきた……読者はすぐさま本屋へ走るか出世を諦めるか、いずれかの選択を迫られることになるだろう。


調査方法は、次の通り。


楽天リサーチの協力を得てインターネットを通じて1002人のビジネスマンを対象に行い、年収500万、800万、1500万それぞれ334人ずつから回答を得た。

年収によって若干年齢層に偏りがあり、500万と800万のボリュームゾーンは40代、1500万は50代が中心である。

調査期間は2012年2月24〜27日。

なお、アンケートは、プレジデントの名は秘して実施。


読書と年収の赤裸々な関係を見ていくことにしよう。


まずは記事から。


プレジデント編集部が独自に行った年収別の読書傾向調査は、読書と年収に明らかな相関関係があることを示している。


既にネット上でたいへん叩かれているのでつけ加えることはあまりない。相関関係といえば統計分析を行って得られる相関係数を示すはずであるが、記事のどこにも出てこない。


この記事はまず、統計学的に欠陥がある。目立つものとして、母集団はすぐに見てわかるように年齢バイアスが(わかっていながら)考慮されていない。例えば厚生労働省の「賃金基本構造調査」のデータをみれば、無視できない影響がある。


賃金構造基本調査、厚生労働省、2011年


ネット検索すると過去に同様な調査は何度か行われているが、これら過去の先例を比較検討していない。先例では統計学的にきちんと解析を行っているし、母数が大きいのでプレジデント調査よりも精度は高い。調査にあたっては、少なくとも先例よりは精度を高めるのが普通である。


プレジデント調査で目新しいのは「この1年に読んで役に立った本」のデータを年収別に出していることで、そこでは次のような結果になっている(書名の後の数字は得票数)



1500

800

500

1

もしドラ(8)

もしドラ(10)

もしドラ(7)

2

スティーブ・ジョブズ(6)

ドラッカーの著作(8)

体脂肪計タニタの社員食堂(5)

3

デフレの正体(5)

TOEIC(4)

人生がときめく片づけの魔法(3)

4

ドラッカーの著作(5)

坂の上の雲(3)

スティーブ・ジョブズ(3)

5

ストーリーとしての競争戦略(3)

伝える力(3)

日経トレンディ(3)

6

プレジデント(3)

マネジメント(2)

ONE PIECE(3)

7

ローマ人の物語(3)

地球の歩き方(2)

あるじゃん(2)

8

日本中枢の崩壊(3)

7つの習慣(2)

阪急電車(2)

9

麒麟の翼(3)

永遠のゼロ(2)

ノルウェイの森(2)

10

7つの習慣(2)

下町ロケット(2)

DUO(2)


過去の調査は雑誌、マンガは読書に含めていない(普通考えて当然であろう)。しかしこの調査では含めているし、TOEICなど読書に入るのだろうか。また、年齢バイアスはここでも影響していて、1500万群で ONE PIECE など存在も知らないのではないだろうか。少なくとも各群の平均年齢と分布、性別は明記し考察する必要がある。


また、この結果をみれば、直観的に「もしドラ」が年収に関係なく読まれている、と言えそうであるが、そのことは一言も触れず、調査者の都合の良いように結論を導いているように思える。


年収と読書習慣の関係を調べるのであれば読書量も当然必要であるが、全く対象になっていない。


プレジデント編集部の調査はここまでで、あとはこの結果を見たコンサルタントの感想が続く。考察でもディスカッションでもなく、ただの感想を対談しているだけなのでどうこう言うこともないのかもしれない。2人のコンサルタントの対談が唖然とするほど低レベルすぎる。


【土井】500万の人は明らかにファンタジー、エンタメ中心です。『ONE PIECE』なんて漫画は思い切りファンタジーです。


【成毛】そもそも知的な人間は漫画なんて読まないよ。海外企業のマネジメントなんて、漫画本の表紙すら見たことないだろうねぇ。


【土井】『海賊の経済学』(ピーター・T・リーソン)という大変面白い本がありますが、この本によると海賊の社会は極めて平等な社会です。そうした社会に憧れるのは、ある意味、厭世的な姿勢だといえます。1500万の人が『ウォール街のランダム・ウォーカー』を読んで、ものごとは確率で決まるという冷徹な現状認識を仕入れているのとは大変な違いです。


いま時マンガに対するステレオタイプな偏見は珍しいが、それを除いてもまだ問題がある。


リストにあげられた本のうち、エンターテイメントに属するのは、もしドラ、ローマ人の物語、麒麟の翼、坂の上の雲、永遠のゼロ、下町ロケット、阪急電車、ノルウェイの森であり、1500万群(3)、800万群(4)、500万群(3)である。数からいったら各年収層で差はみられない(マンガ、雑誌は除外)。しかも各群トップにエンタメを挙げていることになる。


『ウォール街のランダム・ウォーカー』は上のリストに入れてないが、1500万群で得票は2である。2/1002では統計学的な有意差は当然出ず、傾向云々など全くいえない。それこそ対談者の知性がどれほどかが知れてしまう。


それよりも問題に思うのは、ファンタジーに対する偏見である。


『失われた時を求めて』に描写されたサロンからわかるように、ヨーロッパではファンタジーを含めた文芸は教養として最低限のものだった。プルーストは自ら作品を「魔法の書」と呼んだが、人が達成可能な限界を超える作品がファンタジーの本質と言える。本物のファンタジーを理解するには高度な知性が必要である。このような背景を知らないのは知性のなさを暴露しているようなものである。


オンラインではここまでで、残念ながら「ゴミ箱行き」はどのような内容かわからない。


統計とは別に、リストを見て年収に関わりなくつまらない本しか読んでないという印象がある。100年たっても残っている本は一冊もなさそう。『ローマ人の物語』もそれなりに面白かったけれど、いかにも中高年が喜びそうなように書かれていて、ギボンのほうが断然よかった。



過去の調査

現代人の読書実態調査

一般財団法人出版文化産業振興財団 発表:2009年10月、調査:2009年7月、調査対象者:1550人(20-60代)

「世帯年収が高いほど読書量が多い傾向があるということがうかがえます」


子どもの読書活動の実態とその影響・効果に関する調査研究

国立青少年教育振興機構 発表:2013年2月、調査:2012年2月、調査対象者:5258人(20-60代)

「子どもの頃の読書量や現在(大人)の読書量、読書が好きかどうかと、学歴・年収の間に強い関係はみられない」


理想と現実に差! 2割が「月に10冊以上読みたい」 〜見えるビジネスパーソンの電子書籍ニーズ

株式会社アイシェア 発表:2011年9月26日、調査:2011年8月、調査対象者:500人

制限条件:年収1000万以上でひと月に1冊以上読む30〜40代


リストにあげられた書籍の詳細

書名

著者(訳者)

出版社

もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら(もしドラ)

岩崎夏海

ダイヤモンド社

2009

スティーブ・ジョブズ

ウォルター・アイザックソン/井口耕二

講談社

2011

デフレの正体

藻谷浩介

角川書店

2010

ローマ人の物語

塩野七生

新潮社

1992

麒麟の翼

東野圭吾

講談社

2011

7つの習慣

S・R・コヴィー/川西茂

キングベアー出版

1996

坂の上の雲

司馬遼太郎

文藝春秋

1968

伝える力

池上彰

PHP研究所

2007

永遠のゼロ

百田尚樹

太田出版

2006

下町ロケット

池井戸潤

小学館

2010

ONE PIECE

尾田栄一郎

集英社

1997


ファンタジー:魔法やその他の超自然的・幻想的・空想的な事物をプロット・主題・設定などの主要な要素とした作品が属するジャンルである。


エンターテインメント:抽象的な意味をもつ言葉であるが、楽しみ、気分転換、気晴らし、遊び、息抜きなどが類語となっており、エンターテインメントにはそういった意味合いを含む(wikipediaでは読書も含めている)。

以上、wikipedia


プレジデント社:ビジネス雑誌を主に観光する出版社。一ツ橋グループ(小学館、集英社を中核とする出版グループ)に属する。競合誌は日経ビジネス(日経BP社)、ダイヤモンド(ダイヤモンド社)、東洋経済(東洋経済新報社)。

wikipedia


もしドラ


ベスト100


別冊宝島2035 一生に一度は見たい 西洋絵画BEST100

大友義博監修、2013年


「一生に一度」にのせられる人は必ずいる。世界遺産、名画(映画)、名曲……など。

「BEST 100」というタイトルは昔よくあった「CD ベスト100選」みたい。このセットを買った人はCDのデザインが揃っていて見栄えがいいのが自慢だという。やれやれ。


西洋絵画といってもゴシック以前の作品は皆無、『ゲント祭壇画』がようやく100点の中に入っているだけである。西洋絵画がルネサンスから始まるのはこの手の本ではお約束で、写本画や壁画など見たことがない。



表紙をみると、ラファエロよりもフェルメールがスペースを大きく占めたレイアウト。その下にいくつか画像が並んでいるが、珍しいことにルノワールは出ていない。


この Best 100 のなかに、ルドンの作品は1点だけ選ばれていた。クレラー・ミュラー美術館の『キュクロプス』である。1ページの下四分の一程度の小さなスペースをあてがわれ、短い解説文がつけられている。数行の僅かな文章なのに内容はかなり問題がある。


ルドン、キュクロプス

キュクロプス 1898ー1900


まず、制作年代の間違い。出版するにあたって最新の研究成果など調べていないようである(→制作年代について)。


解説文は、背後のキュクロプスに対してガラテアが岩と一体になったように描かれている点を指摘し、その理由として(買わなかったので確実な引用ではないが)、だいたいこんな文章が続いていた。


……女性は自然に近く、つまり文明に近い男性よりもく劣っていると見るルドンなりのその当時の女性観が反映している。

p70


ルドンの手記を読めば、この説明は全く間違っていることがすぐにわかる。


火の国から到着した、すばらしい未開人種の一群、誇らかに人を見下し、残酷で力強く怪奇な数人は、原始生活の夢、生のはじまりの時期の単純さ・純粋さの郷愁を私に与えた……彼らは我々の偉大さのしるしであった。

私自身に、102ページ


それに対して、同じく未開人種をみていた「文明人」について、


この園の株主らしい金持ちの金融家が、彼らのいれられている格子の中に入って行く。未開人たちは彼の襟ボタン穴を飾る勲章のリボンを、執拗に見ている。私は彼らを見比べる。老いたブルジョワの醜さよ。

同103ページ


「女性を劣ったものと見る」は更に問題がある。ルドンは「当時としては類いまれなフェミニスト」(本江邦夫)であったことがわかっている。それに対して「男性よりも劣っていると見た」のは、どこからそんな考えが出て来たのか、出典を明らかにしてほしい。


ギリシア神話を読めば明らかなように「より自然に近い」のはむしろキュクロプスのほうであるから皮肉なものである。


この部分の執筆者は奥付にクレジットされているが、監修者の責任でもあるように思う。



何でも出版される


知識ゼロからの西洋絵画史入門(山田五郎、幻冬舎、2011年)


たまたま中を見た本、AmazonのレビューやBlog上での評価は高い。

しかし、内容に不正確で疑問な部分が多い。


西洋絵画の源流は二つあります。古代ギリシアの古典美術と、キリスト教美術です。前者は肉体を賛美し、写実的で立体的。後者は精神を重視し、平面的。思想も表現も正反対な二つの流れは、古代ローマ帝国を経て、4世紀末から西欧に移動してきたゲルマン人の国々に受け継がれました。

7ページ


これは間違っている。ゲルマンに受け継がれるまでの源流としてのキリスト教美術とすればまだ地中海的な要素が強い(ラヴェンナの例)。ヨーロッパ美術の源流となったもう一方はケルト美術である。


ギリシア・ローマの後はいきなりビザンティン・ロマネスクに飛んでしまう。ケルトもランゴバルトもカロリングもオットー朝もない。知識ゼロ相手なのだからこれで正しいのかもしれない。


いまだにロマネスク=素朴という時代遅れなことを書いている。それでいて、直後に最も精緻な建築を挙げているのだから何なのかと思ってしまう。


(絵画では)技術的な未熟さがかえって素朴な信仰心の強さを感じさせます。


この例として挙げているタウイのサン・クレメンテの壁画(現在はバルセロナ美術館)に今さら「技術的な未熟さ」をみる人はいない。さらに、次の二つは技術的にも成熟した技法で描かれている。




信仰心についてもトレド経由でアラビア文化が流入して12世紀ルネサンスを迎えた時代であり、既に素朴ではない。


ロマネスク建築

石造ドームの技術はまだなく、交差部や正面(ファサード)には塔が建てられました。ドイツのシュパイアー大聖堂やマリア・ラーハ修道院などが代表例。斜塔で有名なピサ大聖堂もロマネスク建築です。

13ページ


どうしてこんな風に書くのか(実は書いてるのはゴーストライター?)これも間違い、石造ドームの技術はちゃんと伝えられていた。カロリング朝時代のアーヘン宮廷礼拝堂にもあるが、本文で名前の挙っていたマリア・ラーハの例。


天井部分


ドームではなくヴォールトだって?それならこれも本文で紹介されている聖堂から。


シュパイアー大聖堂交差部のドーム


シュパイアーといえば、この本の前に出した『知識ゼロからの西洋絵画入門』で写真を掲載していたが、西正面の写真だった。入門者相手だとしても、ありえない。


「五つ目ドーム」と呼ばれている it.wikipedia


フランスではポワトゥー南部からペリゴール地方にかけて、「連続ドーム」と言われる独特の形式が発展している。モワサックの修道院聖堂も当初は連続ドームだった。


サン・ピエール大聖堂、アングレーム


 サン・フロン大聖堂、ペリグー


サン・テチエンヌ・ラ・シテ教会、ペリグー


サント・マリー教会、スイヤック


12ページ下に掲載されたマリア・ラーハ修道院の図版に対するキャプションは混乱を招く。1093年は聖堂の起工年でクリュプタから工事が始まった。この聖堂の説明で注意しなければならないのは、起工から長期中断を経てようやく完成したので、東側はザリエル朝、西側はシュタウフェン朝と様式が異なっている点にある。わざわざ写真で提示している西ファサードは一見して後期ロマネスクであり、12世紀後半から13世紀にかかっている。前方にあるアトリウム(パラディース)は1220年代である。


たった1行なのに問題のあるキャプション



運慶のリアルな彫刻など、ロマネスク美術をしのぐ傑作を生み出します。

13ページ


運慶の作品は素晴らしいと思うが、しのぐとまで言えるのだろうか。


金剛力士像、運慶



無理やり美女にたとえると…

ドジで一途な幼妻 料理の腕はまだまだですが夫を愛する気持は一途。性格も体型も実は骨太です。

13ページ


……


ロマネスク彫刻の作例から




時代はずっと進んで19世紀末、ルドンには数行しか割かれていない。


夢と神話の世界を寓話的に描いたルドン

105ページ


寓話的?


象徴主義にはラテン的な古典主義に対するゲルマン・ゴシック的な神秘主義の復権という側面もありました。

105ページ


ゲルマン・ゴシックの復権はむしろフリードリッヒやシンケルの時代。ルドンに限らず象徴主義の神秘にゲルマン・ゴシックだけではあてはまらない。


素人ならではの大胆さで…

おわりに


出版すべきではない。


修復の結果


ジェイムズ・カウアンの一風変わった小説『吟遊詩人マルカブリュの恋』の登場人物ホラス・ウィンタートンは美術史についてかなり極端な意見を持っている。 


西欧の絵画の始まりはスペイン北部カタルーニャのフレスコ画家たちであり、その最高到達点は1308年、正式の宗教行事として愛好家たちがドゥッチョの『マエスタ』を捧げ持ち、シエナの町を練り歩いた時なのだという。以後のすべての出来事は世俗主義への衰退に他ならない、という自説をこの男は頑として曲げようとしない。民衆的な意匠に汚された芸術など全く認めることができないというわけである。

吟遊詩人マルカブリュの恋、18ページ、小笠原豊樹訳、1999年


Maesta, Duccio, 1308


かなり偏屈なこの説に不思議と納得してしまうが(けれども最高到達点はリウタールがハインリヒ2世に福音書を捧げたときではないかなと思っている)、冗談で言っているように大半の人は思うかもしれない。


『マエスタ』以後宗教絵画の歴史は凋落そのもので現在に至っている。もちろんその間にも凋落に反抗するかのような絵画が描かれているが全体としてその流れにあるのは疑いようがない。


凋落ぶりを象徴するような事件がこの数日話題になっている19世紀のスペインの画家マルティネス(Elias Garcia Martinez, 1858-1934)の『この人を見よ』の修復をめぐる騒動だった。画家についてはこの事件で初めて知るくらいであったが、調べてもほとんど情報がなく、作品を見る限り地方で活躍した保守的な画家のようである。


『この人を見よ』はフレスコ画とはいっても、この数ヶ月で湿気により剥落が進み修復必要な状態となったというから、セッコで描かれていたのかもしれない。


美術作品は時間がたつと環境による劣化が避けられないので修復が必要となる。ミケランジェロやフェルメールの作品くらいになると、国家プロジェクトとして十分な人的・物的資源を確保できるが、それでも失敗することはある。サン・ドゥニ修道院の塔は「修復」の結果、この世から消えてしまったし、サン・セルナン・バシリカ聖堂のヴィオレ=ル・デュクによる修復は却って崩壊の危険性が増してしまい、20世紀後半に全て「修復以前」の状態に戻された。絵画でも19世紀までの修復は除去されることが多いし、20世紀になってもウッチェルロの『ジョン・ホークウッド騎馬像』は過剰な洗浄・修復から原型を失ってしまった。


ロマネスクの壁画でも、サン・サヴァン旧修道院のクリプタは修復中に黴を生やすことになってしまい、以後非公開となっている(高松塚古墳の場合と似ている)。ザンクト・ゲオルク教会(ライヒェナウ、オットー朝)のや聖ヨハネ修道院(ミュスタイル、カロリング朝)などの壁画も過剰に修復されてしまった部分がある。


修復のプロでも失敗するほどであるから素人が行ったら確実に失敗する。BBCのニュースの動画に出ている修復者をみると、善意というよりも、傷んだ絵画のようなものがあると我慢できず手を出さずにはいられない有難迷惑な人にみえる。


おかしいのはその後の反応で、修復後のほうがいいと思うという意見が多い。『この人を見よ』が何であるか、マルティネスがこの聖書の言葉をどのように絵画にしようとしたか、といったこと全て抜きにして、単に暇つぶしのネタ扱いにしている。


修復前後で印象がとても変わった例は、サン・セルナン教会ミエジュヴィル門の浮彫彫刻で、修復がとてもよくされた例である。


修復前


修復後


これだけきれいになるのなら、ぜひモワサックの扉口も修復を行ってほしい。


現状

 
修復後の状態(予想)

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