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シューマンの『ゲノフェーファ』


東京室内歌劇場の定期公演『ゲノフェーファ』2日目の舞台をみた。素晴らしい公演だった。上演に際して様々な制約がある中で、シューマンが作品で伝えたかったことは全て現れていたように思える。


会場


この21世紀の極東の地で会場は(ヨハネの黙示録のように表現するならば)シューマンの霊に満たされていた。


『夜』、中央に霊化したシューマン、フォンフロワド図書室


序曲冒頭の不協和音、第一幕の「私に命じられた役回りは、奥方の見守り役だったとは!」と歌うゴローの背後で不吉に響く、既にシューマンの世界である。


序曲


序曲が終わると、対サラセン戦役に出征する宮中伯の軍勢がミサを捧げる一方、舞台の隅でゲノフェーファが侍女と遊戯に興じる対照的な場面である。若く血気盛んなゴローは、本当なら参戦して活躍したい。けれども宮中伯たっての願いで妃を守護するため留まることになった(ここで冒頭の不協和音が出る)。若い騎士が主人の不在中に奥方の相手を勤める習慣はヴェネツィア貴族の間にはあった(塩野七生の「海の都の物語」のなかで紹介されている)。ヴェネツィアでは習慣として続いていても、武骨なゲルマンの騎士には向かなそうな習慣である。


宮中伯以下軍勢が舞台を去る演出も優れていた。会戦場所がヴイエ(カール・マルテルがサラセン軍を破った場所)であれば、ライン河を遡りシュトラスブルクを経由して行軍するから船を使う筈である。また、列を組んで行進して退場するよりは物語の雰囲気に合っている。


その後は、中世の人であれば「悪魔が入り込んだ」と言うだろうような展開、ゴローの中ではプシコマキア(魂の闘い)が始まり、一部始終を音楽は恐ろしいまでに表すが、常にゴローを見守る優しさがある。


第二幕、ドイツ人なら誰でも知っている童謡の二重唱、その単純なメロディーから抉り出される二人の心情。就寝前の祈りの歌ではまだゲノフェーファはその存在に覚醒していない。


第三幕、シュトラスブルクで戦傷を治療するため滞在中の宮中伯は何も知らない。


登場人物も見たかもしれない、シュトラスブルク、8世紀


この場面の鏡とその後に続く地獄の業火の演出も素晴らしかった。鏡に投影された音楽もゲーテの作品に描かれた優美さ(『ファウスト』のヘレナの場面や『メールヒェン』の百合姫と侍女たちの歌)の中で容赦なく進行する恐ろしい出来事。「芸術の天使は恐ろしい」(『ドゥイノの悲歌』)地獄の業火も、モワサックの業火そっくりだった。


第四幕、背景の茨は場面が森であることとキリストの受難のような試練を予告する。ここでシューマンは民話的なもの、人間心理、宗教的なものを統合しようとし、音楽もクライマックスになっていく。


ドイツ人なら誰でも知っているお話だから、台本に敢えて書かれていないものもある。この幕で演技のみの不思議な配役が登場していたのがそれである。古伝説では、森に追放されたゲノフェーファを鹿が助け、聖母と天使が顕現したと伝えている。森の精 Waldgeist のようにも見えたが鹿(森の象徴であり、ケルトの女神としてのゲノフェーファを守護する)と天使(キリスト教のもとで聖女を守護する)を合体した、ゲノフェーファを庇護する(というより見守る)まさにグリーンマンのような存在である。


天使と鹿、新旧の護り手


ジークフリート宮中伯(こちらは実在)が先代より引き継いだマリア・ラーハの修道院の入り口には、そのグリーンマンの彫刻がある。ザムソンマイスターの作とされ、聖堂と信者を見守る異教の名残を湛える天使的な存在で、ゲノフェーファ伝説の最初の記録がこの修道院で作成される直前に完成した。


グリーンマン(Waldgeist)、マリア・ラーハ(13世紀)


続く場面は『聖アントニウスの誘惑』なみの試練の場面、『魔笛』では二人で試練を受けることができたが、ゲノフェーファは一人で向かわなくてはならない。ケルトの隠修士のような厳しさである。最後に恩寵の徴が現れた。古伝説では処刑は免れたものの、数年間森の中で厳しい生活をしなければならない。修道制に発展する隠修制は原始キリスト教時代にまずエジプトの砂漠の中で始まったが、ケルトでは砂漠と同格ということで森が選ばれた。森は怪物が棲み何が起こるかわからない恐ろしい所とされていた。克服されるのは伐採が組織的になる12世紀以降である。


このオペラは台本に直接出てこない「森」(これがドイツでの上演だったら「森」について暗黙の了解がなされている)をどう表現するかで成否がわかれ、今回の公演ではそれに成功したと言える。


『ゲノフェーファ』はドイツロマン派唯一のメルヒェン・オペラである。ここでいう「メルヒェン」は、子供向けという名目で安易に作られたお話でも、フンパーディンクのオペラでもない。ゲーテの『メールヒェン』のなかに実現されたような魂の本質に関わることである。シューマンはゲーテがまだ生きていた時代に生まれ、ドイツロマン主義全盛の時代を生きた。読書家であったし詩人であった(墓碑銘には、Große Tondichterと刻まれている)からメルヒェンの本質を理解し、『ゲノフェーファ』のなかにその全てを注ぎ込んだ。


音楽と台本は、通俗的エンターテインメントとしての盛り上がりはない(たぶん物足りないという感想が出るかもしれないが、ヴァーグナーばりの盛り上がりをしてしまうと、物語を壊してしまい、良くて人間心理劇、悪くすると特番サスペンスドラマになってしまう)。


演出はとてもシンプルな舞台で人物の動きも少ないが、、演出家の意図に不明な点はなかった。ただし、意図とはかなり違った受け取り方をしている。


この上演をみて気がついたことがあった。これまで伝説の中に男性側の交代劇(ケルト→ゲルマン、旧石器→新石器)をみてきたが、オペラの冒頭の遊戯するゲノフェーファと終幕の森の精をみて、かつてのケルトの女神ゲノフェーファが神性を忘れ安穏の中(遊戯する)にいるが、試練の後キリスト教の聖女として再生する(かつての女神の属性だった森の精は最初のうち処刑されようとするゲノフェーファを庇護しようとするが、最後にゲノフェーファは十字架=新しい聖性を選ぶ)再生劇であり、それは存在を忘れ眠りの中にあるゲノフェーファが自身の存在に覚醒し自立する劇でもある。


音楽だけでなく劇の中にも重層的に様々な要素が組み込まれているので、演奏も演出も揃わないと成功しない。


オペラの中の宗教的感情を理解することも日本では難しい。幕開けのコラールと幕切れの賛歌は状況説明の単なる背景ではない。ヘルダーリンは中世の宗教を「荒々しくも偉大」と言い、カトリックに否定的だったゲーテもシュパイアー大聖堂を訪れ「真の信仰で建てられている」と感じたことはドイツロマン派にも受け継がれた。シューマンもオペラの中にこうした意味で宗教性を(お飾りではなく)織り込んだ。『ゲノフェーファ』がメルヒェンオペラとして人間心理だけでなく魂の変化を扱う以上、宗教は避けて通ることができない。『マイスタージンガー』もコラールで始まるが『ゲノフェーファ』のコラールの真剣さはその比ではない。作品全体がシューマンの生命を縮めるほどの入れ込みが感じられるが、この部分もそうである。


最後の場面でゲノフェーファが喜んでいないのは、心の底では許していないという解釈(演出家はそのように解釈したようである)もあるが次のように解釈した。

ゲノフェーファは試練を経て一段高い状態に成長した(ドイツ人の好む内面的発展)結果、エックハルトの解釈するマルタのように自分だけでなくも周りも見えるようになった。


その視点で周りをみると、夫ジークフリート伯は今回の事件で何の成長もなく、ゴローは試練を途中で放棄してしまった。この非常な現実に愕然としてしまったのではないかと思った。古ゲノフェーファ伝説では、ジークフリートと再会しても城には戻ることは拒否して、マリアの出現した十字架の元に留まり、そこで最期を迎える(その場所がフラウキルヒ)。


宮中伯ジークフリートと妃ゲノフェーファと伝えられる石棺

フラウキルヒ、メンディッヒ(wikipedia.de)


ルドンのシューマンへのオマージュは『ゲノフェーファ』についても言える。


彼自身が高貴だった。その意味は、絶対に利己的でなく、自己を棄てた心の流露、強く充足した魂を持っていたということである。シューマンは、彼の果実を与えた。林檎の樹が林檎を与えるように、自己本位の思いもなく、悔いもなく、彼の心と思想、彼の作品と彼の一生を、他人の苦しみを自分のものにする人々と同じように、与えた。それこそ最高の恩寵であり、深い天才の性格のしるしである

「私自身に」、1915年の手記


劇中登場人物の、最も悪い者にさえシューマンは悪く描き出すことなく優しく包み込んでいるように思える。それはシューマン自身の高貴さからくる。


今回の公演で一つだけ小さな不満があったのは、終幕の鐘である。録音された鐘の音を流したようであるが、これは是非ともマリア・ラーハ修道院聖堂の鐘にするべきであった。ゲノフェーファ伝説ゆかりの土地の、最初に伝説を記録した修道院の鐘だからこれ以上ふさわしいものはないし、100年かけて揃えた12個の鐘(教会でカリヨンを除けばこれだけの鐘を揃えているところは少ない)のハーモニーは本当に素晴らしいから。


マリア・ラーハの鐘


ニーチェがマイスタージンガー前奏曲にシュッツ以来のドイツ音楽の伝統を聴き取ったように、『ゲノフェーファ』が数千年に及ぶヨーロッパ文化の上に成り立っていることを聴き取らないと、わけの分からない体験で終わってしまう。そうなったら実に残念。


そして、ゲノフェーファが神の手に委ねたように、作品に委ねること。


『ライン』初演日に


これまでの『ゲノフェーファ』関連に記事

 もっと深く

 ゲノフェーファ伝説の古層

 ゲノフェーファの登場人物:ヒドゥルフス

 再び『ゲノフェーファ

 シューマンのオペラ


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  • 2019.06.28 Friday
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  • 17:23
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コメント
「ゲノフェーファ」をご覧いただきありがとうございました。大変詳しい資料をおまとめになっていらっしゃり、敬服しております。私のブログで紹介させていただきました。よろしくお願い申し上げます。
前川様
コメント頂きありがとうございます。
公演は本当に素晴らしかったです。イメージしていたゲノフェーファともぴったり合っていました。
シューマンの音楽にすっかり委ねることができて、ほんとうに感謝しています。
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