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挿画の意味するところ


ゲロクロイツ、ケルン大聖堂

舞台の十字架をみて思い出した


オペラ公演の後、ネット上に感想がいくつかアップされていた。内容は玉石混淆し二極分化であった。十分享受できたという人と、できなかった人に分かれてしまったようである。以下では後者の人たちを仮にゴリアテたちと呼ぶことにする。


ゴリアテたちの感想をみると、これまでの人生で培ってきた(決して豊かとは言えない)先入観をあてはめ、一面的にしか見ないためにそうなってしまったと思える。

「メルヘン」の最上のものが、その根源的で本質的な深淵(これはゲーテが作品を以て示し、ずっと遅れて学問的にも実証されたものである)から成り立つ作品であるにもかかわらず、それをわからずにメルヘンを子供向けの低次元な様式であるかのようにとらえているとしか思えないものもあった。シューマンの作品はメルヘンの最上の部類に入るというのに。


人間の心の深奥へ光を送ること――これが芸術家の使命である!

シューマン『音楽と音楽家』、吉田秀和訳


ゴリアテたちに共通するのは、シューマンが数ある中からこの題材を選び、台本に手を入れ、憔悴してしまうほど作曲に打ち込んだというのに、それを全く受容しない(愛さない)ことである。


芸術家は、諸君に与える喜びのためにその一生を打ちこんでいるのである。彼の芸術に捧げた努力については、諸君は何一つ知らない。彼は及ぶ限り善いものを、彼の生命の花を、完成しきったものを与えているのだ。

シューマン、同上


ルドンも同じように考える。


芸術作品というものは、芸術家が差し出す感動のパン種だ。人々はそれを勝手に使う。ただしそれには愛することが必要だ。

ルドン『私自身に』、池辺一郎訳


この他には、前後に初演されたオペラ(特にヴァーグナー)と比較して、オペラらしさがない、単調、弱いというのもあった。極端なものではもっと激しい表現が欲しいともいう。シューマンの作品は、このような刺激を求める聴き方をしてはいけない。後期ロマン派のような表現過多な作品と違うところにある。


ヨーロッパというローカルな場所での伝統芸能であるオペラ(岡田先生の名言)に対して、シューマンは芸術作品として提示した。狭く保守的な基準で見てしまうと、約3時間席に座っていても、何も見ることも聴くこともない(そこにいたからといって、本当に聴いたのだろうか)。


ゴリアテたちの中に入らないまでも、ゲノフェーファに理想の女性像を求めた、という誤解もあった。


芸術家が幾日も、幾月も、幾年も、かかって思索したことを、素人の愛好者は一言で抹殺する気か?

シューマン、同上


レオンの1162年の聖書から



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  • 2019.06.28 Friday
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