チャーリーとチョコレート工場

ジョニー・デップ主演の『チャーリーとチョコレート工場』は、フランスであちこちにポスターが貼られていたせいか、日本に戻ってから珍しく映画館まで行って見てしまった。チャーリーという名前はカルロスの短縮形でカルロスはカールまたはシャルルとなる。

 

もちろんカール大帝の時代、ヨーロッパにチョコレートは存在しなかった。

 

フランク王ピピンの子カールは、リエージュのすぐ北にあるエルスタル Herstal で742年に生まれた(有力説)。今でいうベルギーの生まれ?というと一瞬意外であるが、ヨーロッパ最古の街トンヘレン、後に宮廷が置かれるアーヘン、既に大きな修道院があったマーストリヒトやリエージュが近いことを思うと納得できる。

 

洋梨の里というよりサッカーで有名なシント・トロイデンは、普通の観光客が寄らない田舎町なのに演奏・録音会場に恵まれていて、旧修道院横のカイザーザール(レオンハルトのクラヴィコード、ミクローシュ・シュパーニもクラヴィコード)、ベギン会聖堂(ネーヴェルのロム・アルメ、クイケンの管弦楽組曲)、アカデミーザール(現在は公開されていない?、クイケン四重奏団のモーツァルト)、シント・マルティンス教会、市庁舎ホールなどが集中している。世界遺産もこの小さな町に2つある。

 

シント・トロイデンに洋梨目当てで滞在して、ここを拠点にマーストリヒト、リエージュなどマース河畔のロマネスクを見て回ったが、1日でまわれるほど近接している。そして、マーストリヒトからリエージュに向かうとき、エルスタルを通るのでカール大帝の生地すぐ近くを通ったことになる!

 

そのエルスタルに超がつく高級チョコレート「シャルルマーニュ」の本社と工場がある。このチョコレートを知ったのはつい最近で、日本では何故かお味噌のお店が輸入販売している。

 

何種類かある中で買ったのは当然これ(パッケージ買い)。

 

 

イタリアから来た本とベルギーから来たチョコレート

 

本のページをバックに(下にカール王とヒルデガルト王妃の名前)

 

カール大帝のサインつき!

 

ベルギーチョコというと、ノイハウス(一時期日本に出店していたらしい)、ピエール・マルコリーニをすぐ思い浮かべるが、箱を開けただけで漂う香りからして既にノイハウス以上だった。

 

チョコレートはアールグレイ風味のやや甘い味であったがとても濃厚でピエール・マルコリーニ(最後に食べたのはパフェ・ショコラだったので単純に比較はできないけど)に匹敵する。


革袋

 

The Temptation of St. Anthony

Tranlated by Lafcadio Hearn

 

ギュスターヴ・フローベルの『聖アントワーヌの誘惑』の英訳版、ルドンのリトグラフ(主に第3集から)を「イラスト」として加えている。

 

フランスの戯曲を英訳したものなので、なんだと思われるかもしれないが、ラフカディオ・ハーンの英訳にとても興味がわく。フローベルのフランス語版が出た直後に訳されたが、出版されたのはハーン没後のこと。

 

英語の表現について詳細に伝えることはできないが、一例としてルドンの版画のタイトルになった箇所を挙げてみる。戯曲後半の「革袋のごとく丸い、海の獣たち」を、ルドン展カタログ(MoMA, Beyond the Visible, 2005)記載の同じ箇所と比較してみた。

 

 

 

原文 Les bêtes de la mer roundes comme des outres

英訳 MOMA Catalogue, The Beasts of the Sea, Round like Leather Bottles

英訳 Hearn, The beasts of the sea round as wineskins

 

outreは辞書上では革袋、特に昔のワインを入れた袋。「新しいワインは古い革袋に入れてはいけない」(マタイ)。英語ではwineskinとそのままで、ハーンはこの単語を使っている。Leather Bottleでは丸み感がでないけれど、革袋にワインを入れる時代ではないから(驚いたことに絶滅はしていない)、仕方ないのかもしれない。

 

30年近くかかった『誘惑』が1874年に出版されたときは、売れ行きはよかったものの、批評家からは低評価だったらしい。怪談ものの得意なゴーティエからも酷評されたのに、『怪談』の作者が西洋の怪物の宝庫『誘惑』を訳すほど高い関心を持っていたことが興味深い。


本がきた

はるばるイタリアから。
梱包を解くと革の匂いで部屋が満たされた。

 

 

 

 

 

 


かぼちゃ

ヴァラフリート・ストラボの園芸詩を読んだので関連するものを調べていたら、澁澤龍彦が詩の一つを訳していたことがわかった。『ドラコニア綺譚集』のなかの『かぼちゃについて』で、そこには訳詩が掲載されていた。

 

話の流れとしては、ユイスマンスの『大伽藍』の第十章についてとりあげ、そこで小説に登場するブロン神父がかぼちゃについてワラフリート・ストラボがかぼちゃをすばらしい六脚韻で歌いあげた、というところから始まる。

 

『大伽藍』はシャルトル大聖堂を賛美する小説で、画家の先祖をもつユイスマンスが主人公デュルタルとして、細密画家的にシャルトルの建築を観察していく。

 

 

 

9世紀のヨーロッパに現代の日本人で普通にイメージするかぼちゃが存在しなかったことについては、著者もよく知っているので、「ことばの問題にはもう飽きたから、これ以上は触れない」。さらにかぼちゃ談義を進めていく。

 

ここでかブロン神父の口から出る「かぼちゃ」なる語は、フランス語のcitrouilleであるから、まあラテン語のククルビタと同じものと解しておいてよいだろう。

 

修道院の回廊と薬草についてひとしきり説明した後ワラフリート・ストラボを紹介する。

 

さて、ライへナウの修道院で暮らしていたワラフリート・ストラボーは、おそらく当時のもっともすぐれた庭園文学の創始者であった。……庭は建物の東側、ポーチの近くにあって風雨から守られていたらしい。南側の壁は、はげしすぎる陽光を防いでいた。この自分の修道院のささやかな庭を、ワラフリートは満腔の愛情をこめて歌うのである。

 

ここまできて詩の一つもお目にかけないのも義理が悪いが、ラテン語から直接翻訳するのは(やってできないことはあるまいが)いささか力にあまる難事と苦慮していたところ、レミ・ド・グールモンの仏訳を見つけたようである。

 

レミ・ド・グールモン(Remy de Gourmont, 1858-1915)、貴族出身の詩人・作家、堀口大学が詩のいくつかを訳しているが、今の日本ではほぼ忘れられている、と言いたいところであるが、ルドン関連が入ると事情が違ってくる。

 

批評家でもあったグールモンはルドンの作品を高く評価していた。ルドンのほうもグールモンの批評について「この文筆家は、かつての私の初期作品について書かれたものすべてを上回ることを数行で述べている」と讃えている。

 

そのグールモンがワラフリート・ストラボの詩に着目し、訳していたという偶然も驚きである。以下は澁澤龍彦約の「かぼちゃ」である。

 

私のかぼそいかぼちゃは育ちざかり、

しなやかな若芽を支えてくれる支柱が大好きで、

榛の樹を抱きしめたり添え木に巻鬚でからみついたり。

どの蔓も二つに分岐した若芽を伸ばすので、

左右にそれぞれ二つの支柱を必要とする。

まるで若い糸姫が両側から紡錘竿の糸を引っぱっているみたい。

こうして若芽ののびる方向に沿って咲く一列の花々は、

どうやら大きな螺旋系を描くことになる。

 

この詩についての澁澤龍彦の感想は、

 

おもしろい詩だと思う。素朴ではあるが、奇想にあふれているといってもよいだろう。……ここには成長するかぼちゃを愛情ぶかく観察している詩人の目が感じられて、この詩は生き生きとしたイメージの躍動にみちているのだ。実際、植物を朝な夕な観察し、植物の習性に深甚な興味を寄せている人間でなくて、どうしてこんな詩が書けるものだろうか。どうしてこんなミニアチュールめいた擬人化の世界を思い浮かべられるものだろうか。ここには、観察に基づいていないイメージは一つもないし、紋切形に属するようなレトリックは一つもないのである。紡績竿とか螺旋形といったイメージが、とりわけ私には好ましいように感じられる。

 

詩的なセンスを持った人なので、訳も生き生きとしている。話題のかぼちゃを現代の研究者はヒョウタンであるとしている。ついでに冒頭部分について原詩や様々な訳であげてみる。

 

Cucurbita、ヴァラフリート・ストラボの薬草園、ライヒェナウ

 

ラテン語原詩

Cvcvrbita

Haud secus altipetax, semente Cucurbita uili

Assurgens parmis foliorum suscitat umbras

Ingentes: crebrisque iacit retinacula ramis.

 

ドイツ語

Kürbis

Siehe, da wächst auch der Kürbis. Aus winzigem Samen zur Höhe

Reckt er sich, streut mit den Schilden der Blütter riesige Schatten

Und entsendet mit üppigen Zweigen haltende Ranken.

 

英語(James Mitchell訳)

Gourds

Gourds also grow up high from modest seeds.

Their leaves look like shilds and cast huge shadows,

and the send out their tendrils from several different branches.

 

 

フランス語(Remy de Gourmont訳)

Cucurbita

Mea fragilis de stirpe cucurbita surgens

Diligit apposias, sua sustentacula, furcas,

Atque amplexa suas uncis tenet unguibus alnos,

 

フランス語は簡潔、ドイツ語はやや説明的、英語は詩に雰囲気が欠けているように思える。

 

いまでは、ライヒェナウ島にもかぼちゃがある。

島の北にあるかぼちゃ専門店

 


中世修道院の小さな庭から

中世修道院の小さな庭から

大塚満津子・大塚隆一郎/監訳

新潮社、2018年

 

 

思いがけない本が出た。というのも、カロリング時代の著作が日本で出版されるのはとてもまれだからである。

思いつくままに挙げてみても、

 アインハルト、カロルス大帝伝

 ニタルト、カロリング帝国の統一と分割

 パウルス・ディアコヌス、ランゴバルドの歴史

 ヴィドゥキント、ザクセン人の事績

 カロリングルネサンスに収録された様々な著作

 

といった歴史か神学関係の著作がほとんどだった。

出版不況のなか、敢えてこのような本を出した訳者、出版社の努力は素晴らしい。

 

出版されたのはヴァラフリート・ストラボの詩、Hortulusの名前で知られていた。種村季弘が『ビンゲンのヒルデガルトの世界』(1994年)のなかで触れ、その前に澁澤龍彦が紹介していた。Stundenbirneにも2009年の記事に「残念ながらHortulusはまだ日本語に訳されていないが」と書いていた。

 

内容は、Horulusの翻訳、修道院について、ハーブについてである。翻訳はラテン語原典ではなく、Payneの英訳版(1966年)からの重訳である。他にJames Mitchellの英訳版が2009年に出版され、入手も容易であるが本書で言及はない。ドイツ語版は複数出版されている。手許にあるのは、ライヒェナウで購入したドイツ語版(最初の印刷版の羅独対訳)とMitchell版の2種類である。なお、ラテン語原典はネットを探すと簡単に見つかる。

 

ハーブについての解説は訳者の専門なせいか力が入っている。特にプリニウス、ディオスコリデス、ボールドの植物誌に記載されている効能効果の比較は他になく充実している。

 

作者はヴァラフリート・ストラボ(ストラボは渾名で姓ではない。脱線するとレオナルド・ダ・ヴィンチを「ダビンチ」と呼ぶのと同様間違っている)、カロリング・ルネサンスと言われた時代にライヒェナウの聖マリア・聖マルクス修道院の院長となった人で、先に挙げたカルロス大帝伝にもあとがきをつけている。

 

 

再現されたヴァラフリート・ストラボの薬草園

 

修道院、特にライヒェナウ修道院についての解説は残念ながら大いに問題がある。気になるところを挙げていくと、

 

ヴァラフリド・ストラボはこの修道院が文化的に頂点であった時代に生きて、そして彼の死によってライヘナウ島のよき時代は終わった。(12)

 

カロリング時代のライヒェナウを「金の時代」、オットー朝時代を「銀の時代」と喩えられている。教育や文芸はカロリング時代が最盛期であったが、オットー朝時代にはヴィティゴーヴォ、ベルノやヘルマヌスがいる。彩飾写本はヴァラフリートよりもベルノ時代のほうが圧倒的にピークであったし、ヘルマヌスの著作はライヒェナウ全史上でも最高のものであった。

 

ザクセンのコルビー(53)

 

おそらく似た名前のコルビー修道院 Abbaye Saint-Pierre de Corbie と、コルヴァイ修道院 Abtei Corvey を混同している。もっともコルヴァイ修道院はコルビー修道院によって設置されたのが起源だった。

 

このライヘナウ修道院の中で、輩出された学者と教師の中で、最も傑出していたのは、ハイト(Heito)、ヴェッティ(Wetti)、グリマルト(Grimald)、タット(Tatto)、ヘルマン(Hermann)そして、ストラボであった。(54)

 

ヘルマンは注がついていて、「年代記作者で、最古のドイツ年代記を執筆した」とある。

記述からヘルマヌス・コントラクトゥスのこととわかるが、カロリング時代ではない。また、ヘルマヌス以前にドイツ年代記はいくつも書かれている。有名なのはコルヴァイのヴィドゥキントの年代記で日本語訳もある。

 Annales Laurissenses minores, 9th, Lorsch

 Saxonicae Annales Quedlinburgenses, 1008, Klster Quedlinburg

 Chronicon Suevicum universale, 1045, Reichenau, Hermannus Contractus

 Chronicon Thietmari, 1012, Merseburg, Thietmar

 Gesta Chuonradi II imperatoris, 1033?, Wipo

 Res gestae saxonicae sive annalium libri tres, ca. 967, Kloster Corvey, Widukindus Corbeius

 Chronicon, 906, Regino Prumiensis, Kloster Prüm

 

ザンクト・ガレンの庭

最も有名な修道院の庭は、スイスのザンクト・ガレンの修道院である。その名の由来は、7世紀に30年間、そこに住んだ、瞑想と宗教生活をしたアイルランドの修道士、ガルス(Gallus)からである。(58)

 

基本的なところで誤解があるのではないかと思う。「ザンクト・ガレンのプラン」(ここに小さいけど全体をのせてある)は、ライヒェナウ修道院長ハイトーI世の時代820年頃に筆写されザンクト・ガレン修道院長ゴツベルトに贈られたことがプランの献辞に記載されている。ライヒェナウもザンクト・ガレンもプラン通りに建てられたことはなかった。

 

ガルスの園芸技術はよく知られている。理想的なベネディクト修道院の様式を展開した。その様式は四つの庭から構成され、それぞれの庭に沿って植物が育てられていた。(58-59)

 

(ザンクト・ガレンのプランの図版)

 

ガルスが園芸技術を持っていたかは不明、ガルスはアイルランド出身でベネディクトゥスの戒律に従っていなかった。ザンクト・ガレンがベネディクトゥスの戒律を採用したのはガルスの没後である。注に「ガリアに宣教して、ザンクト・ガレン修道院を建てた」とあるが、ガルス自身は修道院を設立せず、次代のオトマールが設立した。

 

ザンクト・ガレンの修道士たちは、9世紀の間、ガルスの理念を広げた。四つの庭園は、それら独自の目的により名前を付けられていた。墓地、回廊、施療院、そして厨房。それらの庭園は、二つの主たる目的を反映していた。神および人間に役立つため。

厨房と施療院の庭園は、祈りと瞑想の場であり、穏やかであることを意味した。より華麗な庭のいくつかは、中央に装飾的な噴水が設置されていた。

 

「祈りと瞑想の場」の庭は回廊のはずで、ザンクト・ガレン修道院もライヒェナウ修道院も共に聖堂の北側に直結していた。「プラン」では南側になっている。噴水があったかは確認されていない。噴水自体はローマ時代にあり、エックハルトの説教にも登場している。ザンクト・ガレンの回廊に噴水があれば、発掘で配管が確認できるように思われるがそれはなかった。シトー会では洗手堂が回廊のどこかに設置されていた。

 

墓地は、庭として囲まれた空間(カンポ・サント)を形成することがあった。「プラン」からは墓標の周囲に果樹が植えられていたことがわかる。

 

施療院は医療を施す役割上、独自に薬草園を持った。「カドフェル」シリーズをみるとわかりやすい。

 

厨房は修道院に所属する人員の食事を賄うから、大量の麦や野菜が必要で「庭」というには小さすぎる(神からみたら庭にしかみえないかもしれないが)。

 

本書で最も問題なのが、「プラン」という素晴らしい資料がありながら、記載されている薬草園と詩の関係について解説が一切ないことである。「プラン」の左上の四角がこの薬草園にあたり、植えられている薬草名まで記されている。しかもいくつかはヴァラフリートの詩と一致する。実際「プラン」の配置をもとに復元されたハーブ園がライヒェナウとロルシュとオランダにあり、本書にもライヒェナウの薬草園の写真(53)が掲載されている。

 

学習は、七つの学芸に系統立てられた ー文法、修辞学、論理学、算術、音楽、幾何学、そして天文学ー である。(60)

 

いわゆるリベラル・アーツ、体系化はカロリング朝以前にされていた。

 


ルドン展

2013年以来でこの10年開催の頻度が高まっているルドン展、今回は植物をテーマとした。

 

フランシス・ジャムは批評「植物学者ルドン」で画家のの顰蹙を買ってしまったが(その後仲は直り、ジャムの結婚式にもジッドと共に参列した)、周囲にそうした印象を持たせるほどルドンの植物に対する関わりは深い。

 

印象派だけでなくセザンヌやゴーギャン、ゴッホも花や植物を描いたが、ルドンの描く植物は彼らとは違い(といっても、ルノワールの薔薇の絵は好きだった)、ゲーテの原・植物のような木炭画から、「パステルが花になった」作品まで様々だった。

 

今回の展覧会で意欲的だったのは、グラン=パレでも再現展示された、ドムシー邸食堂装飾の再現がされていたことで、装飾の配置が実感できるようになっている。残念なのは、緑に囲まれたドムシー邸なら、窓から木々が見えるはずなのに、密室となってしまっていることだった。

 

 

装飾のうちでも、大きなハープと人物のいるパネルがルドンらしい。

 

 

 

今年はオランダでも大きな展覧会が開かれるというから、当たり年かもしれない。


ヘレンド展

大々的な展覧会があるという話を聞いたのが2015年、それから3年たちようやくパナソニック汐留ミュージアムでみることができた。

 

ヘレンド展は1993年に国内初の展覧会が大丸ミュージアムで、2000年に同会場で開催され、3回目の今回はそれから18年ぶりになる。

 

ミュージアム入り口

 

 

前2回と比べてシノワズリが充実、見たことのないパターンも多い。

一時期気になっていたミラマーレも1点展示されていた。

 

 

 

大発見、「エンペラー」の変な鳥は昔からいた!

 

 

変な鳥、猫は何を待つ? 傍観するマンダリン(図録から)


クリムゾン・リバー2 黙示録の天使たち

原題は、Les Rivieres Pourpres 2 - Les Anges de l’Apocalypse (2004)

 

 

2004年に公開された映画(日本での公開)、同年発売されたDVDのトレイラーにはロマネスクの回廊と塔が映し出されていたのが見るきっかけとなった。

 

映画評をみるとさんざんな低評価で、突込みどころ満載の作品という位置付けになっている。映画で気になったのは修道院の回廊や塔ではなく、映画後半の展開だった。

 

悪の組織が財宝をどうやら探し当てたらしく、それを主人公(ニーマンス警視、ジャン・レノ)が阻止すべく隠し場所に向かう。そこで次のようか会話が交わされる。ここでNはニーマンス警視、Mはマリーで捜査に派遣された宗教学の専門家という設定。以下のような科白が交わされる。

 

M:カール大帝の孫がこの修道院(Abbaye de Lavaudieu)を建てました。

  ルイ1世の甥にあたるイタリア王が818年イタリアを追われた

  その時ヴァチカンの貴重な秘密の財宝を持って逃げた

 

N:その財宝は?

 

M:唯一の味方ロタール1世の元に

 

N:2世の父か

 

M:そうよ

 

M:先週ロタール2世の「封印」が盗まれた

 

N:封印って?

 

M:鍵の一種よ

 

N:何の鍵?

 

M:ロタール2世の財宝が眠る墓よ

  警察に資料が

 

N:どんな財宝だ?

 

M:今も秘密のまま

  キリスト教徒にとって「最も貴重な財宝」とか

 

突然カロリング朝の皇帝が登場した。甥のイタリア王というのは、ベルンハルトでイタリアを追われたのは次のような理由による。

817年に皇帝ルートヴィヒ1世は帝国を3分割することとしたが、無視されたベルンハルトは反乱を起こした(817年12月)。すぐに鎮圧された。反乱を起こしたものの皇帝の素早い反応に驚き、釈明しようとシャロンに行きそこで捕らえられてアーヘンに連行された。同時代の記録(ニタルト)によると、

 

ピピン(810年没)の子で、自分(ルートヴィヒ敬虔王)の甥にあたるベルナルト(ベルンハルト)にはイタリア王国を譲渡した。このベルナルトは、それから少し経ってかれに背き、リヨン地方(伯領)の総督ベルトムンドによって捕えられ、眼球を潰されて命を落とした。

カロリング帝国の統一と分割、岩村清太訳、知泉書館、2016年

 

人物の関係がよくわからないので、カロリング系図をつくってみると、イタリア王ベルンハルトが年も近いロタール1世を頼った(設定にした)のがわかる。

 

 

カロリング朝系図、赤矢印は皇帝位の継承

 

映画ではベルンハルトがヴァチカンの財宝をロタール1世にもたらし、ロタール2世(ロタンギリア王)が墓所に隠したことになっている。なお、ロタール2世の墓所はイタリアのピアツェンツァでロレーヌにはない。

 

気になったというのが、ロタール2世の地下墓所の祭壇に仕掛けがされていて、その仕掛けというのが祭壇に写本が嵌め込まれた設定になっている。その写本を取り出すとどうなるかは映画をみればわかるが、ロタール2世は869年に亡くなっているので、カロリング朝後期の制作ということになる。

 

写本は一瞬だけみえるシーンがある。

 

 

映画のシーンから、一瞬だけ映された写本ページ

 

見る限りページの左右(folio v.とr.)で、右半分に角を持った動物の顔とその左下から見上げるような人物がいる。映画が「黙示録」なので、この写本が黙示録であると仮定すると「七頭の龍」らしい。

 

黙示録写本として映画版写本をみるとおかしいことに気がつく。まず、ロタール2世の時代にしては、テキストの字体が新しすぎる。現存している当時の黙示録写本(ベアトゥス本は除く)、トリーアやヴァレンシエンヌ写本をイメージすると、右半分にみえる「七頭の龍」はとても違和感があり、13世紀以降のフランスの写本のようにみえる。それなら映画のために元にした画像があるのではないかと思い、様式から見当をつけて探してみると、大英図書館所蔵の写本に(わりとあっけなく)いきあたった。

 

 

La Somme le Roi

Frere Laurent d'Orléans, ca. 1295

British Library, Additional 54180, fol. 14v

 

1295年頃に制作された写本で、全ページがデータベースで公開されている。

 

 

このページは14v、つまり左側のページで映画とは逆であるが、「7頭の龍」と左下の人物、背景のデザインはそっくりである。なお、全ページをみてみたけれども映画版写本の左側に相当する挿画(悪魔の誘惑?)はなかったので、別の写本からとってきたようである。

 

9世紀の墓所に13世紀の写本がある理由はわからないが、映画版『薔薇の名前』で小道具として準備された写本は考証も行き届いていただけに落差が大きい。

 

結局は映画の突込みネタが一つ増えただけかも。

 

もう1箇所ページが映っているシーンがあり、四足獣の絵がみえる。

 

 

 

最後は水没してばらばらになる。

 

 

 

 

Abbaye de Lavaudieu オーヴェルーニュ地方、オート・ロワール県ラヴォーデューにあるサンタンドレ修道院。史実では1057年、聖ロベール・ド・テュランドにより設立されたベネディクト会修道院。映画のロケはここで行われた。

 


Repon

浦安のディズニーランドの裏にあったNKベイホールは1988年オープン、2005年閉鎖、2015年取り壊しになり、いまはもうない。主にポップス系のコンサートや格闘技の興行が行われたようである(wikipediaによる)。

NKベイホールの一連の公演のなかでとびきり変わった演目は、1995年5月23日の『二重の影の対話』と『レポン』日本初演だったかもしれない。初演は通常のコンサートと同じく19時始まりだったので、ディズニーランドから帰る家族連れとすれ違いながら、会場を目指したのをよく覚えている。

 

いろいろな意味で特殊な作品なだけに、再演されるとは全く期待していなかったのが、国立音大で演奏されることを知り、すぐにチケットをゲットした。

 

11月11日は「ラ・フランスの日」、公演と重なり期待も高まる。

 

『レポン』の音響空間、日経サイエンス、アートする科学、2016年

 

 

会場に入ると、既に楽器とスピーカが設置されていた。どうしても23年前と比べてしまうが、基本的に95年のときと変わっていないが、下の図よりも横長で、ツィンバロンとピアノ2台がステージに、ヴィヴラフォンとシロフォンが客席後ろに配置されていた。今回はヴィヴラフォンとハープと指揮者の中心近くの席にした。ここからはオーケストラがよく見える。

 

日本初演時の楽器、スピーカー配置

 

初演では何が起こるか全くわからなかったけれど、翌年CDも発売され、日経の記事が出るなど情報も多くなってきた。最大の違いはたぶんコンピュータシステムで、当時(NeXTだった?)では考えられないくらい進歩しているのではないかと思える。Mac Book Proを数台確認できた。

 

前半はメシアンやホリガーの現代音楽演奏、休憩のあと『レポン』が始まった。室内オーケストラの序奏のあと、スピーカーシステムを援用した音響空間が出現した。変な例えだけれど『オテロ』で主役が登場するときのインパクトに近い。『レポン』が聖歌の『レスポンソリウム』からとられているように、教会の音響空間を意識しているのかもしれない。ブーレーズは、ヴェネツィアのサン・マルコ・バシリカの空間について言及していた。音の動きという点では、教会の伝統的な音楽と比べて『レポン』は能動性が高い。この作品はいろいろな場所で聴いてみる必要がある(頻繁に上演されることはない?)

 

初演したIRCAMでないと無理といわれた『レポン』を、演奏・音響操作全て国立音大の学生が行った。この意義は大きい。


クマ700年目のリベンジ

Brother Hugo and the bear

Text: Katy Beebe, Illustration: S. D. Schindler

Eerdmans Books, 2014.

ユーゴ修道士と本を愛しすぎたクマ

千葉茂樹訳、光村教育図書、2015年

 

 

 

天気の良い日に偶然見つけた。

国語の教科書のイメージしかなかった光村教育図書から刊行されていた絵本。

 

12世紀、クリュニー会全盛期の修道院長ペトルス・ウェネラビリスが映画で話題になったグランド・シャルトルーズのグイゴ宛書簡に記された「アウグスティヌスとヒエロニムスの書簡集がクマに食べられてしまった」という実話をもとになしている。

 

絵本では触れてないけれども、クマが「蜜のように甘い」といわれたクレルヴォーのベルナルドゥスの説教集ではなく、アウグスティヌスの書簡集という一見シブそうな書物を食べたのは、700年前まで遡る理由があった。ヒッポ司教アウグスティヌスは、動物全般に好意的でなかったが、特にクマとライオンは敵視し、区別さえしようとしなかったばかりか、悪魔と同一視さえした。クマはそれまで、「百獣の王」として特にゲルマン社会から崇められていたのに、である(ミシェル・パストゥロー『熊の歴史』による)。パストゥローは、アウグスティヌスが嫌っていたのは、個人的な体験があったのではないかと推測している。

 

アウグスティヌスの影響は中世にわたって絶大で、おかげでクマは組織的に排除される対象となってしまった。こうした背景からクマは書簡集を食べることで復讐した。ライオンはヒエロニムスと縁の深い動物で、アウグスティヌスの敵視にもかかわらず次第に地位が上がったので(なんといっても聖マルコの象徴にもなった)復讐の必要もなくなったのかもしれない。

 

 

 

 

ベステアリウム、ボードリアン写本

 

アウグスティヌス書簡集を借り出してクマに食べられてしまったのが、絵本の主人公ユーゴだった。そのことを知らされた修道院長(ペトルス?)は、食材ならぬ贖罪(ちょうど四旬節の1日目だった)を言い渡した。

 

いますぐ、グランド・シャルトルーズ修道院へおもむいて、聖アウグスティヌスの本をかりだし、全てを書き写すのです。一言一句もらさずに。そして、写本をつくり、わが修道院の図書館におさめること。

 

12世紀の書物の価値は立派な家屋1件に匹敵し、彩飾写本であれば礼拝堂くらいに匹敵した。修道院長は簡単に書き写せと命じているが、書写作業は「3本の指でだけでなく全身で苦しんでいる」(薔薇の名前)苦行だった。

 

思い出すのはタルコフスキーの『アンドレイ・ルブーリョフ』の一場面。修道院長に悪態をついて修道院から放浪に出た修道士が、生活できずに再び修道院に戻ってきた。修道院長は迎え入れたが贖罪のため「聖書を10回書き写せ」と命じた。その言葉に修道士は絶望し、他の修道士も厳しい罰に恐れたシーンだった。それほど書写作業は辛い作業だった。

 

ユーゴ修道士はグラン・シャルトルーズに本を借りに行く。四旬節は3〜4月でクマなら冬眠しているように思うが、ヨーロッパには冬眠しない種類もいるそうである。

 

先ほどの『熊の歴史』には、グランド・シャルトルーズ修道院の山奥にたくさんクマが住んでいて、大量の骨が1988に発見されたことが記されていた。『大いなる沈黙』で映し出された風景も、いかにもクマが住んでいそうな山だった。

 

 

グランド・シャルトルーズというより、クリュニー第3聖堂

 

クマに後をつけられながらも無事に帰院したものの、ユーゴは写本制作の経験がなかったらしい。困っていると親切な兄弟(同僚修道士)が面倒をみてくれた。絵本では修道士がそれぞれの名前にふさわしい援助をする。例えば、

 

カドモン修道士は羊皮をくれた。

ベーダの『英国民教会史』に、「カドモンは反芻している清潔な動物のように、聴いて覚えたことをすべて非常に魅力ある歌に変えた」という記述がある。

 

バーソロミュー修道士はその皮を水にひたしてから木枠にはり、表面をなめらかにした。

名前から皮はぴったり。

 

イルドベール修道士は、罫線をひいてくれた。

少し前の時代にル・マン司教で著述家のイルドベールがいた。著述家だから罫線は馴染みが深い。

 

マルタン修道士は、ペンとしてつかうガチョウの羽をくれた。

トゥールの聖マルタンはガチョウと縁の深い聖人、サン・マルタン祭にはガチョウを食べる。

 

ジェローム修道士は、書き損じをけずりとるためのぺんとナイフと、机をかしてくれた。

ラテン名ヒエロニムス、ギリシア語からラテン語に聖書を訳した。書斎で書写する姿が多く描かれた。

 

めでたく写本は完成、筆写元の本は持ち主のところに返しに行くことになった。

このあと結末がどうなるか、それは読んでみてのお楽しみであるが、ユーゴ修道士はクリュニー会修道士ではなくザンクト・ガレン修道院の修道士だったら、クマは寄りつかなかったばかりか、進んで助けてくれたかもしれない(というより、そもそも食べることをしなかった)。クマは後に修道院が建つ地に定住した聖ガルスに、食べ物を届けていたのである。

 

 

食べ物を届けるクマ、トゥオティロ

 

 

イラストレーターも12世紀風に装飾している

 

 


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