四月のさかな

 

久しぶりにダロワイヨの限定サブレ「四月の魚」を入手できた。1年のこの時期しかいない貴重種の魚である。

 

 

 

 

わかばの鯛焼きと共に必需品となるかもしれない。

 

 

『四月の魚』といえば

 

 

年間通じて魚であり続ける

 

 


シャラントの川辺

大きな塔に小さな塔、コーンのような屋根

 


シナノゴールド

というわけで、早速シナノゴールドを買ってきた。

 

今の季節もうなくなっているのではという危惧はあったものの、晩成種のせいか長野物産館に沢山あり、形の良いものを2個選べた。

 

 

つやつや

 

 

黄色というよりは緑がかっている

 

同時にジャムもゲット

 

シナノゴールドは長持ちするのも特徴なので、しばらく観賞用のりんごとなっている。

 


りんご

世界有数のりんご生産地が南チロル一帯である。実際何キロも続く果樹園の傍を、これがりんごではなく洋梨であったらと思いながら通り過ぎた記憶がある。

つい先日、長野県で作出された「シナノゴールド」が南チロルに移植され育てられていることを知った。さらに今週のニュースで南チロル産「シナノゴールド」が欧州デビューを果たしたという、日本農業新聞の記事も読んだ。

記事によると長野県と連携したのは南チロル果物生産者協同組合、ヴァルヴェノスタ協同組合の二つで、種苗の利用許諾契約を結んで試験栽培を2007年から行なっていたということである。

 

ヴァルヴェノスタ(ドイツ語読みでフィンシュガウタール)は、中心に聖プロコロ教会のある渓谷だった。今まで訪れたなかでここほど祝福された土地はないと思うくらい天気がよく(実際1年のうち300日は晴れる)、北のチロルと違って豊かな地域である。聖プロコロ教会の周りもりんごの果樹が取り囲んでいた。

 

プロコロ教会とりんご

 

聖プロコロは畑作物、家畜、果樹の守護聖人だから「シナノゴールド」もプロコロの祝福を受けるに違いない。

 


懐中最中

小さい頃に一度だけ食べる機会があったきり、その後ずっと見ることもなかった懐中最中をうさぎやで発見した。お湯さえあればお汁粉になる優れものの最中である。

 

正月らしく紅白で1セットの懐中最中

 

 

お湯を注ぐと(3分間待たなくてよい)

 

簡単にお汁粉が出来上がる

 

見かけは最中で中に粉末化した餡が入っている。お湯を注ぐと最中の皮部分がお餅のようになりお汁粉となる。普通に作るお汁粉に迫る味で、懐中だから携帯もできる。

 

調べてみると懐中最中はそれほどレアではなく、形もさまざま。記憶を頼りに思い出してみると小さい頃食べたのは今川焼風の形をしていた。有名なのは文明堂、虎屋も懐中汁粉という名前で出していた。今まで虎屋には何度も行っているはずなのに懐中最中には全く気がつかなかった。

 


古い通り

これまでショーソンに関する本はフランスでもほとんど出版されてなくて、1967年のジャン・ガロワのものがいまだに唯一のまとまった評伝のようである(R. S. Groverの英語版もあるらしい)。

 

若い頃からマダム・ド・レイサックのサロンの常連だったことは知られているが、本のなかにサロンの所在地について記述があり初めて場所がわかった。早速地図でみると、サン・シュルピス教会とリュクサンブール公園の間にある一区画であった。通りに詳しいfr.wikipediaをみると、同じ通りの13番はリトグラフの発明家ゼネフェルダーが店を出していたこともわかった。

 

ルドンが転写紙を用いてリトグラフを制作する方法を教わったのは同じサロンの常連ファンタン・ラトゥールからであり、最初の石版画集『夢のなかで』も予約購入したのはサロンのメンバーが中心だった。

 

この頃まで石版画のブティックがあったかどうかはわからないが、偶然とはいえリトグラフの発明家とその技法で最高の作品をのこした版画家が同じ通りに関わっていたことが、コスモポリス都市パリならではのことに思える。

 


近所パフェ

カレンダーで考えると季節から外れてしまっているが、天気がよいのでおやつはパフェになった。

 

 

コンビニで見かけたプラ容器に入ったものを除けばパフェは持ち帰りができない。どうしてもこちらからカフェに出向くことになる。今回は近所のカフェのバナナパフェ。

 

 

外は寒くても若干効き過ぎの暖房のせいでパフェがおいしく感じられる。

 

 


フルーリス通り27番

パリ左岸に建つ古いアパルトマン、調べていたらここに過去住んだ人たちに次々と行き当たった。



27 Rue de Fleurus, Paris

このアパルトマンには既に名声を得ていたジャン=レオン・ジェローム(1824-1904)が住んだ(1846〜1854)。この時期に代表作のいくつかを描いている。後にブリュッセル通りに引越した。短期間ながらルドンが師事したのはジェロームの私塾だった。

少し間をおいて1882年に、画家を志してポーランドから来たアンナ・ビリンスカ(1857-1893)が住んだ。地元ポーランドでは既に絵画展に出品したりしていたが、パリに来てジュリアン・アカデミーで研鑽を積む。経済的に厳しい状態だったが医者の父親が亡くなるといよいよ窮乏し、ジュリアン・アカデミーで教えるようにもなる。1892年に結婚してワルシャワへ転居した。ここでパリのようなアカデミーを開こうとするが、心臓発作で1893年に亡くなる。36歳だった。


自画像、アンナ・ビリンスカ

ビリンスカと入れ違いのように入居したのがルドンだった(パリで住んだ場所)。子供も生まれ、故郷からの送金も途絶えがちで窮乏気味だったので、ビリンスカが引越して空いた部屋だったのかもしれない(これは未確認であるが、画家であれば同じ条件の部屋に入る可能性はある)。1年ほど暮らしてルガール通りに引越した。送金が止まりいよいよ窮乏の度合いが強くなり、家賃が高く思えたのかもしれない。

このアパルトマンを決定的に有名にしたのはルドンではなく、1903年以降レオンとガートルードのスタイン兄妹が住んでからだった。特にガートルードはマティス、ドラン、ピカソ、ブラックといった当時の現代絵画を収集し、部屋にはルドンの作品(花)もあった。特にピカソの『アヴィニヨンの娘たち』は制作途中を目にした数少ない一人で、肖像画も描いてもらっている。


ガートルード・スタイン、後ろにピカソが描いた肖像、撮影はマン・レイ

アパルトマンのサロンには画家だけでなく、作家が数多く出入りしていた。スタインは第二次世界大戦が始まるまでアパルトマンに住んだ。

ジェロームやスタインが住んだのは家賃が高く広い部屋で、ビリンスカやルドンが住んだのは、より安い上の階だったのかもしれない。

かげろう

おやつを買って帰ってきた途中でみつけた。
緑があざやか。



クサカゲロウという種類らしい。
幼虫はアブラムシを大量に食べてくれるという。

キヒヒヒ


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