CSG 359


『ラインズ』で初期のネウマ譜として掲載されていた図版、ザンクト・ガレン図書館所蔵の『カンタトリウム』(CSG 359, 922-925)は、完全にのこる楽譜としては最古のものだそうである。写本には降誕祭から公現祭の間に歌う聖歌を収録している。


装幀板


装幀版は5世紀にコンスタンティーノポリスで制作され、カール大帝の所有になっていた象牙浮彫板で、『ディオニュソスのインド人との戦い』を彫刻、どうみても写本の内容とは無関係な気がする。


p24-25


どこかに演奏された録音がないかと思ったら、前に買っていたCDの中にこの写本のグラデュアーレとアレルヤが含まれていた。


カヴァーはザンクト・ガレンの楽譜だった


歌っているのはポーランドの団体のようであるが、アンサンブル・オルガヌムのような歌唱で、ギリシャーアジア的な雰囲気が強い。上記の他にCSG 390, 391(アンティフォナリウム)や、聖ヴォルフガングゆかりのアインジーデルン写本などからとられ、歌われている。



対観表


各福音書の対応関係を表にしたもの。

これまでに多くの写本の対観表を図版などでみてきたけれども、これほど力の感じられるものはなかった。


皇帝の紫に浮かぶ金文字




そうだ、温泉へ行こう!


テルマエ・アクア・グラニ


もともとこの場所はケルト人の土地で、ローマ人はケルト神の名前をとってアクイス・グラヌムと名付けた。


アーヘンは温泉好きのフランク王カルロス・マグヌス(カール大帝)が好んで滞在したことからファルツ(宮廷)が置かれた。ここで多くの勅令が起草され、帝国の理念が形成されたので、事実上の首都とみなされた。現在のアーヘン大聖堂はカール大帝自らの附属礼拝堂として786年頃から建設が始まり(異説あり)、805年に献堂された。増築はあるものの、ほぼ完全な状態で現存するカロリング朝唯一の大型建築である。


カール大帝、ミュスタイル、9世紀?


wikipedia(jp)の「アーヘン大聖堂」の項目には次のように記述がある。


アーヘン大聖堂はしばしば「皇帝の大聖堂」(ドイツ語:Kaiserdom)として言及され、この大聖堂は北部ヨーロッパでは最古のものである。786年にカール大帝がアーヘンの宮殿教会の建設を始めた。814年にカール大帝が死ぬと彼は自身の大聖堂に埋葬され、彼の骨はいまも特別の神殿に保存されている。 大聖堂は、一千年以上の時を経て、現在の装いを調えた。 アーヘン大聖堂の中心は宮殿教会である。


この記事にはいくつか問題がある。


アーヘン宮廷、カロリング時代の復元

礼拝堂の後ろに温泉がみえる


大聖堂


「大聖堂」という名称はカトリックでは「司教座の置かれる教会堂」と定義されている。ラテン語:Cathedrale、英語:Cathedral、フランス語:Catherale、ドイツ語:Kathedral。日本では「大聖堂」という言葉が用いられているが、少なからずカトリックの定義から外れている場合がある。まず、原語の問題、ドイツでは司教座教会堂に「主の家」Domusから派生したDom(イタリア語Duomoも同様)、または「修道院」Monasteriumから派生したMünster をあてていることがある。さらに、普通の教会堂(Eglise、Kirche)とは別に特別格式のある教会について「バシリカ」の呼称もある(→以前の記事)。日本語はこれら複数の単語を訳す過程で混乱しているのと、大きな聖堂=大聖堂と訳してしまったり、意味もわからずにつけてしまう間違いが多い。


同じように誤解されている例がヴェネツィアのサン・マルコ・バシリカである。現在は司教座教会堂であるが、創設時から長いあいだ、「ヴェネツィア総督のための私設礼拝堂」の位置付けであり、ヴェネツィアの司教座教会は別にあった。


司教座は司牧のため、ローマ帝国が行政上統治に用いたシステムを取り入れ、教区として割り振り、そのうえに置かれた単位で、司教座教会堂は複数の教区の中心にある教会である。「アーヘン司教区」について調べてみると、当初はリエージュ司教区(4世紀に設立)を構成していた大助祭区(Archidiakonat)の一つで、後にケルン大司教区に編入されている。1802年にナポレオンの意向により独立して司教区に昇格したが1825年に取り消され、1930年に再度司教区となった。


現状


Kaiserdomという名称は通常シュパイアー、マインツ、ヴォルムスの3つの司教座教会に対してのみ用いられるが、例外的にケーニヒスリュッターの修道院聖堂も(司教座でないのに)Kaiserdomと呼ばれている。アーヘンも長いあいだに慣用的に呼ばれ、そう呼ばれてよい歴史の重みがある。


なぜカール大帝の時代にアーヘン司教区 Bistum Aachen が存在しなかったのか、一つの理由として、ヨーロッパの王権概念に由来した事情があったと思われる。クロヴィスからカール大帝まで、王に即位するときは香油を塗られた。キリストに対して行われたのと同じ行為から教皇と同等以上の聖性を持つとされ、それを根拠に司教を自由に任命/解任することができた(後にこのことが叙任権闘争を引き起こす)。カール大帝の時代、教皇は皇帝に従属する一司祭くらいに考えられていた。宮廷のあるアーヘンが形式上リエージュ司教区に属していても「アーヘン司教区」にならなかった理由はここにあると思われる。


この大聖堂は北部ヨーロッパでは最古のものである。


アーヘンの宮廷礼拝堂は建設当初、何よりもカール大帝の礼拝堂であった。アーヘン以前に、アルプス以北には大聖堂(もちろんカトリックの定義)は存在している。


フランク王領の司教座、8世紀

Reinhard Schmoeckel, Revor es Deutschland gab, 2002, p544


上の地図のなかでも有名ななものはトリーア、一部の遺構が今も現存している。ケルン、何度も改築/新築されて現存していないが、古代末期から聖堂が建てられていた。ジュネーブ大聖堂、発掘調査から古代末期の大聖堂の形態がわかっている。(アルプス以北か微妙なところだけれど)クール大聖堂、4世紀に遡る。従って「この(アーヘン)大聖堂は北部ヨーロッパでは最古のものである」という記述は間違っている。


アーヘン大聖堂の中心は宮殿教会である。


教会と礼拝堂の違いをわかっていない記述である。


古典主義様式、ビザンティン様式そしてゲルマン様式-フランク王国様式の要素を備えた心を奪う建築は、きわめて重要な記念碑的建造物の真髄である。


「カロリング・ルネサンス」が帝政ローマへの回帰を指向したことは確かであるが、「古典主義」は別の時代の概念なので、ここで用いるのは適当でない。


宮廷礼拝堂にはまだ興味深いことがある。ラヴェンナのサン・ヴィターレ教会のプランを参考に集中式オクタゴンを建てた、という説があるが、ストーン・ヘンジの石の配列と、礼拝堂の列柱配置が相似形であることから、ストーンヘンジの聖性を継承したものだという説もある。アーヘン宮廷のブレイン、アルクィンはヨークシャー出身で、ドルイドのをはじめとする秘教に関する博識にかけては並ぶ者がなかった。ストーン・ヘンジに体現された古代の知識が宮廷礼拝堂に反映されたのだという。



ファルツ礼拝堂にストーン・ヘンジを投影させた平面図


アーヘンの宮廷



生命の泉


思いがけないところで写本零葉のファクシミリを見つけた。ゴデスカルクからメディチの時祷書まで様々な時代のものがあったが、カロリング時代の『ソワッソンのサン・メダール福音書』をまずゲットした。


ファクシミリは『オットー3世の福音書』やゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの『トリストラム』写本を出版した Verlag Müller & Schindler が90年代に製作したもので、印刷では再現できない金箔は別の専門家が手掛けているので素晴らしい仕上がりになっている。


『ソワッソンのサン・メダール福音書』は、「カール大帝の宮廷派」の代表作で827年に同修道院に献呈され、フランス革命の後、パリ国立図書館に移された。


ソワッソンのサン・メダールの福音書、「生命の泉」


ゲットしたのは「生命の泉」Lebensbrunnen の挿画、海外の写本挿画集でみたことはあったが、ファクシミリで見たのは初めてだった。「生命の泉」も、Google(日本語)で調べても全く出てこないのであまり知られていないのかもしれない。


金を使った装飾も再現


附属の解説によると、泉の上の十字部分には太陽神アポロンの像であるという。そういえば、初期キリスト教時代のカタコンベなどには太陽神としてアポロンと同一視された(同時にローマ当局の目を逃れるための偽装)キリストが描かれたりしていた。


十字架とスフェール


たぶん、宮廷にあったローマ時代のカメオがモデルなのかもしれない。サント・フォワの聖遺物匣にもローマのカメオが嵌めこまれていた。


生命の泉はゴデスカルクの福音書にも描かれ、ソワッソンによく似ている。


ゴデスカルクの福音書


建物自体は遠く離れたアルメニアの『エチミアジンの福音書』に似た形で描かれているけれども、年代はエチミアジンのほうが遅い。


エチミアジンの福音書


楽園のイメージ


「生命の泉」はその後も描かれたが、若返りの泉みたいな解釈になり、つまらなくなっていく。



Sanctus Sanctus Sanctus


カロリング時代の写本


Sacramentarium Drogo, fol15r

Paris, Bibliothèque Nationale de France, MS lat. 9428



ロルシュ 9


倉庫のような前教会を過ぎると、その裏は空き地だった。本来はここに修道院の中心、ザンクト・ナツァリウス聖堂が建っていた場所である。ずっと後になってから航空写真をみると、ザンクト・ナツァリウス聖堂のあった位置がわかるように芝生を道で区切り、アプシスのあたりに十字架が立っている。

さらに東側にはクリプトの跡と地上に碑がある。


クリプトはたいていの場合アプシスの下(だから地下聖堂と訳される)に位置するので、聖堂から離れて建てられるのはとても珍しい。外クリプト Außenkrypta と呼ばれている。エッセンの Sankt Liudger がよく知られている。


ロルシュ修道院東側の跡地


この外クリプトは華麗な装飾だったらしく、エクレシア・ヴァリア、五彩の聖堂(ドイツ中世美術)と呼ばれ、ルートヴィヒドイツ人王、ルートヴィヒ幼童王、クニグンデ王妃といったドイツ史にも登場する王や王妃がここに葬られていた。


碑文


STÄTTE DER

KAROLINGISCHEN

GRUFTKIRCHE

"ECLESIA VARIA"

ERBAUT 876-882

HIER WURDEN BEIGESETZT

KÖNIG LUDWIG

DER DEUTSCHE +876

KÖNIG LUDWIG

DER JÜNGERE +882

DESSEN SOHN

HUGO +879

KÖNIGIN KUNIGUNDE

GEMAHLIN KONRAD I

+ NACH 915

ERRICHTET ZUR 1200-Jahrfeier

IM JAHRE 1964

STADT LORSCH


カール大帝により帝国修道院に昇格され、初期中世文化の中心地だった修道院も、僅かに遺構と写本と記憶が残るのみである。





ロルシュ 8



『ロルシュの福音書』の福音書記者ヨハネ像は確実にライヒェナウ派に引き継がれたようである。


聖ヨハネ、ロルシュの福音書


ケルン大司教となったゲーロから依頼されて969年以前に制作されたライヒェナウ派初期の代表作『ゲーロの福音書』の聖ヨハネ像は、背景や装飾がやや単純化されているものの、とてもよく似ている。


聖ヨハネ、ゲーロの福音書、ライヒェナウ派


10年ほど後の980年頃に制作された『エグベルトの福音書』、前の世代とは明らかに変わり始めている。




そして、リウタールのヨハネ。




ロルシュ 7


楼門 Torhalle の先に一つの建物が見える。倉庫みたいな建物は何度も改修されたことがわかる跡があり、大きなバットレスが脇に付属している。


門から


建物がある部分はパラディース(イメージは中庭に近い)があり、1090年の火災後に屋根がついて本来の教会の前に「前方教会」Vorkirche と名付けられた教会が接続した。このような形の複合教会は珍しい。


正面


横からみると壁で塞がれた三つのアーチがある。この部分をみた瞬間そこに主身廊と側廊が実際目の前にあるように思えた。


前方教会南側面


よくみるとピアとアーチの間に迫元があり、とても優美な装飾が施されている。


カロリング時代の文様


ここが本当にパラディースだったとしたら、ローマのヴィラに負けない優雅な空間があったことになる。建築でのカロリング・ルネサンスと言えるのかもしれない。



ロルシュ 6


ザンクト・ナツァリウス修道院由来の『ロルシュの福音書』はカール大帝の宮廷工房で制作され、皇帝が没する少し前に修道院に寄贈されたと考えられている。以来、長らく同修道院にあったが、現在は分断されてしまっている。


 装幀板(表) ヴィクトリア・アルバート美術館

 装幀板(裏) ヴァチカン教皇庁図書館

 写本前半部 ドクメンターラ・バッティアネウム図書館 RII, I.

 写本後半部 ヴァチカン教皇庁図書館 Palat. Lat. 50.


実物はまだ見ていないが、2000年に制作されたファクシミリ(分断されていた部分も復元された)は何度かみる機会があった。前にも紹介した装幀板は象牙浮彫で、表側が聖母子とザカリア、洗礼者ヨハネが彫られている。西と東のローマが複合したモニュメンタルな装幀板である。


装幀板(表)


裏面は獅子と蛇を踏むキリスト、獅子はマルコの象徴でもあるが、傲慢の象徴ともみなされた。中世の象徴体系は必ずといってよいほど表と裏の意味を担わされている。


装幀板(裏)


足下の横に一匹の猫がいて、主題と関係なく割り込んで遊ぼうとしているようにみえる。『ケルズの書』にも猫が登場していた。


横から猫が


本文の見開き、各ページはダブルカラムで中央にテキストに対応する章番号が記されている。小さな画像なのでよくわからないけれども、ボーダーの装飾は見開き毎に全て異なり、パルメット、メアンダー、ランゴバルト風組紐、ケルト風組紐、マーブル文様など様々であるが、オットー朝時代のような怪物は登場しない。


見開き、78v-79r


ボーダーには金と銀が使われている。テキストも金なので Codex Aureus (黄金福音書)とも呼ばれる。


78v拡大


銀の鳥


怪物が登場するボーダー、エグベルトの福音書


紐の端に鵞鳥らしき鳥の頭がついている。ウルネスの木彫装飾にとてもよく似ている。


鵞鳥の頭と組紐文


葡萄文


魚も登場


とても若々しく古典的な福音書記者ヨハネ。


67v


宮廷工房の代表作とされる写本の寄贈を受ける修道院であるから、極めて重用視されていたことがわかる。



ロルシュ 5


柱頭彫刻は下層がコンポジット式(コリント式とイオニア式の組み合わせ、ローマ時代に発明された)、上層はイオニア式の古典的な美しさをもっている。


下層


上層


ピラスターは溝が彫られ、上下に水平に連なるフリーズは精緻とはいえないが、ローマ的な装飾である。


ピラスターとフリーズ


アーチから楼門の中に入ると天井は材木を横に渡した構造になっている。時代がもう少し後だったら石造天井となっていた。


楼門天井


12世紀の石造天井


この部分に装飾は一切ない。

有料のガイドツアーで2階に入ることができるが、入らずに門の向こう側に進んだ。



calendar
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  
<< November 2017 >>
sponsored links
selected entries
categories
archives
recent comment
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM